Destiny - 83 -
よく分からないぬるま湯の中に居るようだった。
呼吸は出来ている。
いや、それすらも分からない。
ただ感覚として、苦しさを感じないが故の結論だ。
漂っているのか、浮いているのか、歩いているのか。
それすらも分からない空間の中に、コウはいた。
目を開いても視界に入り込むのは自分の手すらも見えない闇。
音も匂いも何もなく、そこにあるのは―――永遠と続く、無だった。
「――――――――」
自分が発した筈の声も耳に届かない。
手を動かしている感覚はあるのに、何かを掴むこともなければその動きを視界に捉える事も出来ない。
全てが無意味と化すこの空間は何なのか。
自由なのは、彼女の頭の中だけだった。
「何者だ?」
初めて聞いた声は、決して優しいものではなかった。
本当に、心の底から警戒しています、って感じの声。
「……話さねェなら敵として処理する」
彼なら本当にそうするだろうなって、初めてあったにも関わらず、そう思わせるほどに低くて怖い声。
それが、ユウとの出会いだった。
今思えばあんな出会い方をしていて、今の友好的な関係があると思うと…正直、自分でも結構凄いと思う。
それくらいに、ユウの表情は怖かったんだよね。
「あ、紹介が遅れたね。僕の名前はコムイ。科学班室長だよ」
この時のコムイさん。
笑ってたけど、実はその目の奥の値踏みするような眼、気付いていたんだ。
こう見えても軍の中では洞察力が侮れないって若輩ながら認められていたから。
敵か味方か―――彼がそれを測ろうとしていた事、ちゃんと気付いてた。
「ふーん。これがユウの手に付いてた歯形の主なんだ?」
この声は…ラビだね。
懐かしいな、あの頃はよくユウがアズの歯形をつけていて…。
あの日も、そうだったね。
アズにガブッとやられて、しっかり歯形を残して帰った所為で、ラビにからかわれたんだって、後から聞いた。
「へぇー!!アンタ美っ人だな!モロ俺の好み…
……………ちょいと、ドラゴンのアンタ。離してくんね?めっちゃ痛いさ、それ」
教団のカミツキガメ。
一時期アズがそう呼ばれていたことも、知っていたよ。
一番初めに近づいてきたラビも、例に漏れずアズを手にぶら下げた。
痛いって言う割りに顔はそんな風に見えなかったな…きっと、我慢していたんだと思うけど。
「俺の名前はラビ」
彼はアズをぶら下げてる事なんて忘れさせるほどに、にっこりと笑った。
「んで、知り合った矢先に悪ぃけど…コイツに離してくれるよう頼んでほしいさ。
ユウとお揃いの歯形ってのは笑えるからいいとしても、右手使い物にならなくなったら困るし」
ちょっと握手しようよ、そんな簡単なことを頼むみたいにそう言ったラビに、自然と警戒心は解けていた。
気がつけばアズに頼んで彼を解放していて、軍で過ごしていた警戒心はどこへ、って自分でも驚いたんだよ。
「あ、サンキューな!あのままコイツをぶら下げて生活する事になる所だったさ」
そう言って笑ったラビを見て、あぁ、これでもいいか、って思えたけど。
「初めまして。リナリー・リーです」
兄とは全く違っていて、これっぽっちも人を疑っていない笑顔。
彼女の笑顔すらも一度は疑ってしまう自分が、酷く汚いものに見えた。
「ううん。皆が噂してたから。あっという間に壊れたものを元通りに直す秀麗な女性!だってさ」
会うのが楽しみだったの。
リナリーはそう言って笑ったよね、今でも覚えてる。
同年代の女の子って初めてだったから…仲良くしたいとは思ったの。
「あ、はい!僕はアレン・ウォーカーです」
不思議だね。
全然似てないのに、アレンを見ると彼を思い出した。
理由は、あぁ、過去に何か辛い事があったんだなって、そう感じさせる眼差しの強さ…かな、きっと。
「そう言えば…“エドワード”って誰ですか?」
ドキッとした。
その名前をこの世界で聞くことになるなんて思わなかったから。
大切な人、そう答えて、本当に大切だったんだって実感した。
あの頃は…年下の彼に、小さな恋心を抱いていたから。
自覚した頃には、すでに彼は異世界の人になってしまっていたけれど。
まるで、走馬灯のように次から次へと記憶が流れていく。
自分で思い出しているというよりは、別の誰かにそれを引き出されているようだった。
出会って、一緒に任務をこなして、少しずつ友好関係を深めて。
そうして、歩いてきた軌跡が脳内に浮かんでくる。
―――死んだのかな。
ふと、そんな考えが脳裏を過ぎった。
走馬灯を思い浮かべるのは死ぬ間際だと言うけれど、実際に死ぬ間際の人から事情を聞くことなど出来はしない。
結局の所、生きている者の想像でしかないのだ。
コウはこんな状況になる前へと考えを及ばせる。
最後の仕上げにアズと言う繋がりを断ち、そして自分も共に逝く筈だった。
その時を邪魔したのは、エルリック兄弟。
彼らがいつ気付いたのかは知らないけれど、確かにコウの考えを読んでいた。
そして彼らと口論になって、当然のことながら理解など得られるはずも無くて。
半ば強引に錬成を始めた所に、エドまでもが己の錬成を組み込んだ。
あの時浮かんだ錬成陣を視界に捉えて―――いつの間にかこの空間に放り込まれていた。
生きているのか死んでいるのか。
それすらも分からない空間だ。
最早、自分が目を閉じているのかすらも危うい。
いっそ気が変になりそうなほど無音で真っ暗な世界に、コウの心中までもが染まりつつある。
闇は人を弱らせる。
独りは嫌だと、そんな負の感情ばかりが、優しい記憶によって更に際立ってきてしまった。
「――――」
口を動かしても声はなく。
涙を流そうにもまるでそれは涸れてしまったかのようだ。
頬を伝う感覚も、目元が濡れる感触も何もない。
全てが無であるこの状況は、人を弱くする。
「――、――っ」
声を上げたい。
名前を呼びたい。
兎に角、独りではないと実感するために―――誰かの名前が呼びたい。
誰かの?―――違う。名前を呼びたいのは―――
07.11.03