悠久に馳せる想い
突然紅の元を訪ねてきたのは、魔界トーナメントを企画した張本人である幽助だ。
彼も蔵馬同様に自分を鍛えている最中だと思っていた紅は、来訪に少しばかり驚かされた。
「結界を頼みたい?」
幽助の分のお茶を用意しながら、紅はそう繰り返した。
お盆の上に二つしかお茶を用意しないのは、蔵馬と暁斗が留守だから。
二人は、朝早くから修行に行くと言って出て行った。
「魔界の奥でじっと状況を見守ってた奴らも出てくるだろ?」
「まぁ、そうね。彼らが衝突するとなると、魔界そのものが壊れかねないけれど…」
紅は彼に湯飲みを差し出しつつ、悩む。
確かに、彼の言うことは一理ある。
「折角トーナメントで統治者を決めようとしてんのに、その時に魔界がないんじゃ意味がない。
だから、紅に結界を頼みたいんだ」
頼む、と両手を合わせる彼を前に、紅は落ち着いた様子で椅子に腰掛ける。
即座に返事をくれない辺りが、なんとも彼女らしい。
「そうね…。私は出場する予定じゃないし、構わないけれど…蔵馬が頷くかしら」
紅自身がしたいと望めば、彼はそれを無碍にはしない。
しかし、彼女自身、蔵馬の指示を仰ぐことが多い。
彼が頷いて、それから漸くどうするかを判断する。
ここで、幽助は漸く頼む相手を間違えたと悟った。
「や、でも…そんな、危険なわけじゃないだろ?」
結界を張ってもらうだけだ。
何も、彼女にトーナメントへの出場を促しているわけではないのだから、これくらいは許されそうなものである。
しかし、紅は煮え切らない様子だ。
「攻撃の内容によっては、術者にそれが返って来るの。その種の攻撃で結界が破られた場合は…私に返ってくるわね」
紅の結界が破られると言うことは、まずありえない。
彼女は知人の欲目ではなく、魔界一の結界妖怪だ。
そんな彼女の結界が破られることがあるのならば…魔界を保つこと自体が不可能に思えてくる。
その状況を想像し、幽助は軽く青ざめた。
紅は彼の様子にくすりと笑みを浮かべる。
「まぁ、主催者が困っているようだし…手を貸すわ、幽助」
「ほ、本当か?」
「ええ。術者に返す攻撃もあるけれど、あれを使う種の妖怪はすでに絶えているの」
復活していなければ、まず存在していないわ。
そう言って彼女は湯飲みから茶を啜る。
その言葉にほっと安堵し、漸く肩の力を抜いた幽助。
用意されていた湯飲みを持ち上げ、緊張で乾いた喉を潤す。
「蔵馬の説得はどうする?あなたに頼んでもいいのかしら」
「………え!?説得してくれるんじゃねーのかよ!」
さっきの安心を返せ、と言いたげな視線を向けられる。
よほど、蔵馬にそれを頼むのが嫌らしい。
紅はクスクスと笑いながら、まぁ仕方ないだろう、と思う。
自分が関わっている時の彼は、いつもとは違った冷静で冷酷な部分を見せるから。
それが、彼からの愛情だと思えば、彼女自身は嬉しく思う。
しかし…周囲からすれば、厄介な変化なのだろう。
盗賊団を率いていたときは、よく部下たちが苦労していた。
紅に盗りの頭を頼む際は、彼の機嫌を見極めなければ命の危険すらあった―――そんな話を聞いたこともある。
「仕方ないわね。今回は、私から伝えてあげましょう」
そう言うと、彼女は壁に沿うように置かれている机へと歩み寄った。
引き出しを開き、ペンと紙を用意する。
「会場の見取り図を書いておいてくれる?どの程度の絳華石が必要なのかがわからないから」
「よし!」
任せろ、と張り切る幽助をそこに残し、紅はキッチンの時計を見上げる。
もうすぐ、彼らが帰ってくる頃だ。
「幽助、お昼を食べていくでしょう?」
「あー…頼む」
少し悩んでからそう答え、彼はふと顔を上げた。
部屋の中を見回す様子に、紅が首を傾げる。
どうかした、と声をかけると、彼の視線は彼女へと向けられた。
「いや…魔界って言っても、寧ろ人間界みたいなつくりだよな、この家。黄泉の趣味か?」
「何言ってるの。ここは、盗賊をやってた頃に建てたものの一つよ」
いつまでも黄泉と手を組んでおく理由はどこにもない。
彼自身も、今は真剣にトーナメントに参加する意思を見せているのだ。
すでに個々は独立しており、そこから先の関わりはない。
数十年ぶりに顔を出したこの家がどうなっているかは心配だったが、使えないほどではなかった。
軽く掃除をしただけで十分に機能するようになったここに暮らして、すでに1ヶ月。
盗賊団に居た頃、遠出をした時の隠家としてよく使ったここには、懐かしい思い出も詰まっている。
一つ一つがとても大切で、愛おしくて…あの頃と変わらず、蔵馬と暁斗が居ることが、とても嬉しい。
「盗賊ってさ、あんまり想像できねーんだ。どんな感じなんだ?」
「…人間界で言う強盗なんかとは違うわよ。生き残るために、奪っていたわ。もちろん奪われる覚悟もあった」
義賊だと言い張るつもりはないけれど、弱者に手を出したことはない。
一段を結成してからは、特に自分たちよりも上の相手ばかりを狙うようにしていた。
そうして、盗んだものや奪ったものを売りさばき、余ったものは弱者へと譲る。
分け前はしっかりと与えていたから、下の者の反感が高まることもなかった。
今思うと、あの頃の生活は…本当に、充実していた。
「…楽しかった、のね…」
紅はポツリとそう呟く。
そう、楽しかったのだ。
ひとりでは難しいかもしれないけれど、皆と一緒ならばこなせた任務もあった。
蔵馬が個々の利点を生かした班を組ませていて、だからこそ、自分の最大で動くことが出来る。
その結果が成功へと繋がり、充実した日々だった。
ふと懐かしさに目を細める彼女を見て、幽助は口を噤んだ。
紅のこんな表情は知らない。
そんな事を考えていると、ふと玄関のドアが開く音がした。
程なくして、トトト、と近づいてくる軽い足音。
「母さん、ただいま!」
勢いよくドアを開き、飛び込んでくる銀色の塊。
それは真っ直ぐに紅へと突き進み、その腕の中へと飛び込んだ。
「お帰り、暁斗」
難なく受け止めた彼女は笑う。
そして、腕の中の銀色の狐―――暁斗を見下ろした。
「…暁斗?」
それを指差し、呆気に取られている様子の幽助。
紅は彼の言葉に頷き、暁斗は今気付いたとばかりに彼を振り向く。
そして、トンッと紅の腕から離れ、床へと着地した。
着地と同時に、少年の姿へと成り代わる。
「幽助、久しぶりじゃん」
「おぉ、そうだな―――って、お前狐になれんのか。すげーな」
「凄くないって。妖狐なら普通だよ、こんなの」
「純粋な妖狐は、獣型と人型の両方の姿を持っているわ。人型の方が主となっているけれど」
普通と言う言葉で片付けてしまった暁斗。
そんな息子に苦笑しつつ、紅はそう説明した。
それが終わった頃に、再びドアが開かれる。
「幽助が来ているのか」
珍しいな、と姿を見せたのは、蔵馬だ。
よ、と腕を上げる幽助に軽く手を上げて答えてから、紅の方へと近づく。
「お帰りなさい」
「あぁ。暁斗はどっちで帰ってきた?」
「狐の方よ。あなたが言ったの?」
「狐狩りの薬草を持たせて、狐の状態でここまで帰らせた。…体力もついてきたみたいだな」
「狐の姿の間中ずっと妖力を食ってくれる薬草ね。随分、酷いことをするわ」
クスクスと笑いながら、紅はキッチンへと戻っていく。
彼女を見送ってから、蔵馬は幽助たちを振り向いた。
決して彼を嫌っていない暁斗が、色々と話しかけている。
幽助の方も邪険に扱うことなく、会話を楽しんでいるようだ。
蔵馬はその光景に小さく笑みを浮かべ、紅に差し出されたグラスを両手に彼らへと近づいた。
08.05.31