悠久に馳せる想い

大樹のお告げ―――それは、一族の長が儀式を行い、この樹齢数千年の巨木から言霊を授かると言うもの。
九尾の一族にとっては、この大樹は、いわば神にも等しい存在だった。
この大樹こそ我らの誇りとして崇め、そして守ってきたものだ。
その深すぎる思いを掟とし、代々守り続けてきた。
掟を受け入れる事のできなかった九尾の狐が、一人また一人と里を去る。
しかし、この掟は言ってしまえば血に継承されるもので、里を離れた後でも完全に拭い去る事は難しい。
既に千に等しい昔、里を去った紅ですら、この大樹を神々しいと感じ、平伏さなければならない義務感を覚えるのだ。
大樹は、九尾にとっては絶対的なものだった。








「女…?」

事実へと変わってしまったそれを即座に受け入れる事は難しい。
紅は信じられないといった様子で首を振った。

「…別に、性別なんか今更なんの意味もない。あんたの目の前に居るのが弟じゃなくて妹だった。その程度だ」

紅の混乱を感じているのだろう。
出雲はフン、と鼻を鳴らした。

「そんな…絳華を持つ華持ちの狐だけが優遇されて…」
「癒しと侵蝕。両極端な力を持つが故に、闇は疎まれ光は保護される。…当然の真理だ」

出雲の言葉に、紅は静かに瞼を閉ざした。
情報量があまりに多く、思考が混乱を極めている。
落ち着かなければ、と深く呼吸をすれば、懐かしいと感じる清純な空気が肺に吸い込まれた。

「…私には知らないことが多かった。あなたの性別も、その考えも」

ただ敵と憎み、決着をつけなかった自分を褒めたいと思う。
踏みとどまったお蔭で…沢山の事を知った。
そして、今自分のすべき事も。

「ただ疑問だった。何故、あの時暁斗を…私の息子を殺す事ができたお前が、致命傷だけに留めたのか」

50年ほど前のあの日。
紅を含め、そこに居た全員に向けられた殺気は本物だった。
出雲は確かに彼らを殺すつもりだったのだ。
紅と蔵馬は、出雲に殺されないだけの実力があった。
しかし、幼かった暁斗は違う。
脇腹を抉った致命傷は肺まで達していて、紅の能力がなければ彼の命はあの時に尽きていた筈だ。

―――次は殺す。

そう言い残し、去っていった出雲。
あの時は暁斗の事で手も頭も一杯で、深くまで考えていなかった。

「“暁斗”を殺す事ができなかった―――愛する人と同じ名を持つ妖狐だったから」

今だって、出雲は暁斗を殺す事もできたのに、気絶させるだけの攻撃しかしていない。
そして…先ほどの言葉。
紅の大切な者を奪う事への執念。
全てを考えれば、答えまでの道のりは容易だった。

「…今更、身の程を知らずに幸せを求めたりはしない」
「それを望む事ができるとしても?」
「望む事が愚かしい。俺は…お前を殺し、闇華を完全なものとして…生き延びる」

それだけだ。
迷いをなくした出雲の目に、紅は短く息を吐き出す。
最早、問答の時は過ぎた。
スッと掌を上に向け、手を差し出す。
紅の掌に生まれた狐火の美しさに、出雲は思わず目を奪われた。
出雲には、神聖な炎とされたこの狐火を使う事ができなかった。
紅は無言でその狐火に意識を集中させる。
揺らめいていた炎が球を描き出し、やがて直径15センチほどの球体にまで縮んだ。
紅の妖気を織り込んで凝縮された狐火は、深く血のような絳。
それを見つめる彼女の目は無表情だった。
そして、紅は何も言わず、構える事もなく―――それを放つ。
狐火に目を奪われ、動く事を忘れた出雲の方へと、真っ直ぐに突き進んでいく。


















ゴゥ、と焔が燃え上がる。
出雲は、目の前の光景を信じられない様子で見つめた。
その目は驚きに見開かれていて、言葉は意味を成さずに空へと飛散する。

「な、にを…」

目の前で、神聖な狐火の焔に巻かれているのは、九尾の誇りである大樹だ。
特別な術が施されており、九尾以外には傷つける事ができない、大樹。
それを誇りとする九尾の狐がそれを傷つけることなどありえない―――だからこそ、守人もいない。

「何を馬鹿なことを…!大樹が失われる!九尾の一族が守り続けてきたものを…」
「縛られなければ、永らえる事のできない一族など滅べばいい」
「お前…これは九尾の誇りだぞ!それを失う事の意味をわかっているのか!?」

信じられない、と声を荒らげる出雲。
彼…いや、彼女を一瞥し、紅は燃え盛る大樹を見上げた。

「私にとっての九尾の誇りは、ここに居る金司達のみ。物言わぬ大樹になど、私の進む道を決めさせはしない」

逆らってはならぬものと、血がそう叫んでいる。
出雲の身体の中に流れるその一滴ですらも、大樹を救えと叫びを上げた。
そんなにも絶対的な存在である大樹に焔を放った紅。
それは、神殺しにも似た大罪だった。

「憎むと言いながら、その掟に一番縛られているのは、出雲。お前自身だろう。
流れる血に抗う事もできず、無駄に時を過ごしている。真に解放されたいならば、方法はいくらでもあったはず」

焔が樹皮を焼く。
ぼた、と塊で足元に落ちた枝を見下ろし、出雲は沈黙した。

「里を出て外界に一歩を踏み出した時点から、大樹のお告げに従う必要などない」

そう言うと、紅は「悠希」と使い魔を呼ぶ。
悠希は紅の肩に姿を現し、出雲を一瞥してから彼女を見上げた。

「帰り道を繋ぐ事は出来るか?」
「…難しいかと思われます。門となる大樹がこの有様ですから…」

九尾の里は、魔界であり魔界ではない。
一種独特の空間に存在するそこから魔界に戻るには、繋がりとなる道が必要だ。
悠希の言葉に、紅は「そうか」と短く答える。

「…もう間もなく、里の一族が大樹に押し寄せてくる。―――どうするつもりだ?」

出雲は静かにそう問いかける。
放心状態とは少しばかり違うのかもしれないが、それに近い状態だった。
紅は出雲の問いに口角を持ち上げる。

「こちらも、準備が整ったようだ」
「母さん!」

紅の言葉に重なるようにして、突然その気配が表れた。
空間を移動したのだから、気配が唐突になるのもおかしくはない。
聞こえた声の主…暁斗が、こちらに駆け寄ってくるのが見えた。

「母さん、無事?よく分からないけど、大樹が燃えているから道を繋げって父さんが…」
「よくやった、暁斗。―――私は、あなたなら出来ると信じていたわ」

そう言って輿に抱きついてきた暁斗の頭を撫でる。
そして、向こうからゆったりと歩いてくる蔵馬に微笑みかけた。
彼も紅に笑みを返すと、燃え続ける大樹に目を向ける。

「…派手にやったな」
「そうかしら。帰り道をどうしようかと悩んでいたんだけれど…頭の冴える夫を持つと幸せね」
「とても悩んでいる風には見えないがな。それより…向かってきているぞ」

蔵馬が気配を感じ取っているようだ。
空気を読むように目をそちらへと向ける彼に、紅は頷いた。
それから、呆然とした様子でこちらを見ていた出雲を振り向く。

「選びなさい。ここに残って一族の者に殺されるか―――私を信じるか」
「…殺されると決まったわけじゃない」
「そうね。でも、残ればこの大罪の犯人と言う事になるわね。そんな輩を生かしておくほど甘い一族だとは思っていないでしょう」

紅が大罪だと思っているわけではない。
ただ、出雲はそう考えているだろうと踏んでの言葉だ。
彼女の言葉の意味を理解できる出雲は、沈黙せざるを得ない。

「私を信じると言うなら…あなたの命を救うと誓う」

ピン、と張り詰めた空気がその場を支配した。

08.04.12