悠久に馳せる想い

鬱蒼とした樹木が生い茂っている。
視界を悪くするそれらは、日の光を通さず、昼間であっても夜のように薄暗い。
それでも、それは妖狐の紅の視界を悪くするほどのものではない。

「…こちらです」

声を上げたのは、暁斗―――息子ではなく、出雲の元契約者の彼だ。
慣れた様に歩く彼を見て、覚えのある道なのだろうかと思う。
そんな紅の考えに気付いたのか、彼は首だけを振り向かせて苦笑した。

「初めてですよ。ただ…出雲の霊圧を辿っているだけです」
「…そう」

どこか納得した様子で頷いた彼女に、暁斗は視線を前へと戻した。
ザクザクと草を踏み分ける音だけが、継続した音となる。

―――出雲はわざと霊圧を残している…

点々と、まるで見失われては困るとばかりに続く霊圧の名残。
意図していたのではないとすると、これは一体なんだと言うのだろうか。
暁斗には彼の考えが理解できていた。
彼は…紅を呼び寄せているのだろう。
まるで、巣を張り巡らせる蜘蛛のように。
彼女がそこに踏み入れるのを待ち望んでいる。

「暁斗」

紅の声が聞こえ、暁斗はやや驚いたように肩を揺らした。
いつの間にか彼女が横に並んでいて、訝しげな視線が自分を見つめている。

「余計な事は考えない方がいいわよ。出雲の考えが分かっているのは、あなただけではないのだから」
「…分かっていて、行くんですね」
「出雲も私も―――決着をつけないことには、終われないのよ」

願わくは、それがどちらかの死で終わる事はないように。
そう願っているのだけれど、実際にそれを実現できるかどうかは、誰にも分からない。

「妖狐蔵馬と息子を魔界の旅に送り出してまで…遠ざけるんですね。二人は、あなたの傍にいることを望んでいたのに」
「…これは私だけの問題よ」

暁斗の言葉に紅は僅かに瞼を伏せた。
息子の暁斗から「強くなるにはどうしたらいいのか」と問われたのは、一昨日だ。
それに対し、「多くの世界を見てきなさい」と答えたのも一昨日。
蔵馬に「旅に出る暁斗についていってあげて」と頼んだのは、昨日。
二人が出て行ったのは、今朝早く。
そして―――紅は、「帰らずの樹海」に来ていた。

「二人とも、気づいているわ」

それでも、紅が何を言おうと自分達を遠ざけようとしているのだと理解し、沈黙を決めたのだ。
彼女の意思を変える事は難しい。
それならば、せめて気付かなかった振りをして遠ざかるべきなのだと。
心配する自身を諌め、彼らは旅立った。

「出雲を殺さず、あなたも死なず―――そんな奇跡のような事を、本当に実現できると思っているんですか?」
「…説得すると言った者の台詞じゃないわね」
「…それは…そうですね。でも、私には…本当に、奇跡のようにしか思えない」

出雲の人格に触れ、どうしても助けたいと思った。
けれど、それにはどのようにすればいいのか…右も左も分からぬ彼には、それを探す術すらない。
そんな中、出会った彼女。
彼女は出雲を助けたいといった。
しかし、出雲自身がそれを望んでいないといった。
だからこそ、彼を説得するのは自分の役目だと思ったのだが…。

「教えてください。どうやって出雲を解放するというのですか?」

迷いもなく尋ねてくる暁斗に、紅は一度短く息を吐き出した。
それから、彼を追い抜くようにして先を進む。

「私の血を使って、出雲の闇華を封印する」
「…闇華は既に出雲の身体の大部分を侵食しています。
それを封印すると言う事は、彼の命を奪う事には繋がらないのですか?」
「私達の核として存在する華を封印すれば…死ぬでしょうね」

生きながらの死、とでも言うのだろうか。
核が死に、身体だけが生きる。
そして、歳月を経て身体も徐々に朽ちていくのだろう。

「…血を分けあった私達だから…出来るかもしれない」

100パーセントとは言えない確立だけれど、死ぬ事に比べるならば―――。
ギリギリの綱渡りだと分かっている。
それでも、これに気付いた時―――諦める事は出来ないと思った。
数千年、華持ちの狐達は絳華と闇華を巡って争い続けてきた過去。
それが当然であり、華を持って生まれた時から、紅はその歴史を知っていた。
誰かに教えられるでもなく。

「私には理解できない世界のようですね」
「…私も、契約上のあなた達の繋がりは理解できないわ。所詮、他人の全てを知る事など出来ないものよ」

後半部分は呟くように言った。
憎まれたかったわけでもないし、憎みたかったわけでもない。
けれど、いつの間にか歴代の華持ちの狐達と同じように、敵対してしまっていた。
彼が何を思ってそうしているのか―――理解など、出来なかった。














足元を掬わんとばかりに伸びている節くれだった根をひょいと避け、紅は頭上を仰ぐ。
木漏れ日が差し込む暖かい光景が脳裏に浮かんだが、実際に目の前に広がったのはそれとは逆の風景。
光など一切零れる事無く、重い空気を含んだ葉が視界一杯に広がっている。
自分の足跡さえ残らないこの場所は、一度踏み入れれば外の世界に帰る事が出来ないと言われた。
故に、帰らずの樹海。
何人…いや、何千の妖怪がこの樹海に迷い込んだのかは分からない。
しかし、外と中を往復できる者はほんの一握りだと言われている。
そんな深い樹海の奥に、紅の故郷がある。

「あそこを出て何年になるのかしら…」

もう、その姿もぼんやりとしか思い出す事は出来ない。
古巣に戻ろうとしているのに、懐かしさのような感情は浮かんでこない。
最早、彼女の居場所は別の場所に存在していた。

「出雲の故郷だと聞きました」
「…ええ、間違っていないわ。そんなことまで話しているのね」

ふと、唐突に告げる暁斗の言葉に、やや驚いたように返事を返す紅。

「九尾の里。元々閉鎖的な種族だから…里の存在が外に知られる事はなかった」

唯一鮮明に覚えている、何千と言う時を生きたであろう巨木。
それを前に、紅の足は自然と立ち止まってしまっていた。
記憶の中でそれだけが色鮮やかに存在を主張している。

「再びこの目でこれを見る日が来るとは思わなかった」

呟いた本心が、暗い空気の中へと溶け込んでいく。

08.03.05