悠久に馳せる想い

「母さん…っ!!」

満面の笑顔は、半分涙を含ませているようなものだった。
それを見たかと思えば、次の瞬間には腰辺りに結構な衝撃が走る。

「…暁斗…随分と、鍛えてもらったらしいわね」

とりあえず、今度は手加減を教えてやって欲しいと思う。
ぎゅぅっと腰辺りにしがみ付いてくる暁斗の頭を撫でながら、紅はそんな事を考えていた。








本来の姿でいることが自然だったのだろう。
暁斗は耳と尾を隠す事もせず、蔵馬譲りの美しい銀毛を揺らしている。
嬉しさを表す尻尾は、右へ左へと落ち着きなく動く。

「そうか。また雷禅のところへ…紅も、熱心だな」

茶でも出す、と言って要塞の中へと紅を迎え入れたのはもちろん躯だ。
彼女はテーブルにつき、紅の話を聞いてそう呟く。
確かに、自分でも熱心なものだと思う。
ただ何となく…漠然と、行かなければという意思に動かされた、と言うのもあるのだが。
それに関しては、躯には…いや、蔵馬にさえ伝えていない。
確信が無いものを告げる必要はないと考えているからだ。

「ねぇ、母さん。雷禅のとこ、俺も行きたい」
「駄目」

小首を傾げて頼んでみたのだが、返って来たのは即座の否定。
えー、と不満げに頬を膨らませる暁斗。
躯に預けてから、何となく精神年齢が退化しているような気がする。
そんなに寂しい思いをさせたのだろうか…と紅は心中で首を傾げた。
期間にしてもそんなに長くは無かったと思うのだが。

「随分と甘えたになったわね、暁斗?」

あえてそう言ってみれば、彼はきょとんと目を瞬かせる。
それから、躯をちらりと見て、テーブルに顎を置いた。

「………別に」

そんなことないし、と言う言葉は飲み込まれる。
彼の様子を見て、躯は堪えきれないとばかりにククッと喉で笑った。

「鍛錬の量は半端じゃないからな。一週間程度寝込んだ」
「暁斗が?」

珍しい、と目を見開く紅。
彼が寝込むのなんて、何十年ぶりだろうか。

「その時に随分と母親を恋しがってな…妖怪のガキを預かったのは初めてだから、こちらも勝手が分からず苦労した」

その時の事を思い出したのか、躯はふぅ、と息を吐き出した。
溜め息にも似たそれに、彼女の苦労が見えるような気がする。
紅は躯から暁斗へと視線を映すが、彼は頑なに目を合わせることを拒んだ。
ぎゅん、と音がしそうな勢いで自分から目を逸らす彼に、紅は苦笑を浮かべる。
彼の性格を考えれば、こんな話をされてはこの場所にいることすら恥ずかしいのだろう。
それでも出て行かないのは、離れている間に紅が出発してしまう事を恐れているからに他ならない。
もしかすると、限りある時間を出来る限り彼女の傍で過ごしたいと言う子供らしい欲求なのかもしれない。

「その時の躯の様子が思い浮かばないわ。三竦みの一人ともあろう者が、妖狐の子供一匹に苦労するなんて」

彼女が困ったり、苦労したりと言った姿を見たことがないのだから、想像するのが難しいのは無理もない。
そう言った紅に、躯は肩を竦めた。

「出来ればもう二度と御免だな。抑えきれない妖気の所為で、要塞内の部下が何匹か潰れた」
「あらあらそれは…鍛え方が足りないんじゃない?」
「お前の息子だ。今は手綱のない暴れ馬のようなものだが…使い方を覚えれば、化けるぞ」

躯にそう思わせるほどに、暁斗は大きな可能性を秘めた妖狐だった。
鍛えるほど、まるでスポンジが水でも吸収するかのようにどんどんと吸い込んでいく。
しかし、それは一向に限界を見せない。
底なしの妖力と、それを操るためのスキル。
今は右へ左へと傾くそれだが、そのバランスが完全となった時―――
その時を思うと、躯は背筋がゾクリと粟立つのを感じた。
純粋な闘争本能が鎌首を擡げ、いずれ来るであろうその時に期待を膨らませる。

「躯にここまで言わせるなんて…頑張ったのね、暁斗」

紅は隣に座る暁斗の頭を撫でた。
嬉しそうに耳が伏せられる彼を見て、彼女は思う。
たとえ素質があったとしても、それを己のものにするための努力を惜しむ者であれば、躯は即座に諦めただろう。
少なくとも、暁斗は努力を忘れたりはしなかった。
時間が掛かったとしても鍛える価値がある―――躯に、そう思わせたのだ。












「あ、そう言えば…母さん」

廊下を歩いていた紅は、くいっと服の裾を暁斗の手に引かれる。
歩く足は止めずに彼を見下ろす彼女に、彼は続けた。

「飛影がいるよ」
「…まぁ、飛影にはよく合う場所でしょうけれど…そう。飛影もこっちに来たのね」

雷禅の所には幽助。
躯の所に飛影。
そして、黄泉の所に蔵馬。
流石に完全に人間である桑原はいないようだが―――嘗ては共に戦った仲間が、別れてしまっている。
全面対決となれば、彼らの戦いは避けられるものではないだろう。
数ヶ月の間に、彼らはその国のトップ2以上に躍り出るだろうから。

「ねぇ、暁斗?」
「何ー?」
「あなたは、魔界の頂点に興味がある?」

窓の外を見つめ、紅はそう問いかけた。
眼下に広がる広大な森は、とてもではないが爽やかなどと言う正の感情を抱く事は出来ない。
おどろおどろしい雰囲気を醸し出すそれは、紅にとっては当たり前の光景だった。

「俺は興味ないよ。そりゃ、強い奴と戦うのは面白いけど…別に一番になりたいわけじゃないし」

迷う様子もなく答えた暁斗。
彼の返事を聞いて、紅は薄く笑みを浮かべた。

「魔界を牛耳る事に何の意味があるのかしらね」

達成感を得られる―――少し、違うだろう。
支配欲が満たされる―――これも、違う気がする。
不動の地位と、広大な魔界を己が手に納める事が出来る。
だが、それが出来たとして何になるのだろうか。

「少なくとも、躯は魔界を牛耳る事を目的とはしていないわ」

貪欲に強さを求めてきた結果、他の者よりも強くなった。
彼女に賛同する妖怪が集り、それらがある種の国を作り上げる。
始めから彼女がそれを望んだわけではない。
ただ、これはあくまで結果でしかなかったのだ。
躯の下につく妖怪は、黄泉や雷禅を蹴落とす事に意識を向けている。
紅には、彼女の意思は置き去りにされているように思えていた。

「まぁ、躯は強い相手と戦える事だけで満足しているんでしょうけれど」
「雷禅や黄泉は?」
「雷禅は…もう魔界なんて、どうでもいいんじゃないかしら」

すでに己の死期を悟っている彼のことだ。
我武者羅に走り続ける事も、やめてしまっている。
幽助を呼び寄せた事には何らかの意味があるのだろうが…それも、紅にはよくわからなかった。
所詮は他人のこと。
全てを知ろうと思うのは傲慢以外の何物でもない。

「…雷禅が死んでから、魔界が動くわね」

どう転ぶのかはわからない。
ただ…それが、幽助の行動次第であると、紅は漠然とそう感じていた。

07.11.06