悠久に馳せる想い
「蔵馬。少しいい?」
コンコン、とドアを叩き、そう声を掛ける。
開かれたままなのだからノックをする必要は無いのかもしれないが、そこはマナーと言うものだ。
「紅か。どうした?」
「蔵馬はもうすぐ人間界に戻るでしょう?」
そう切り出した彼女に、蔵馬は壁に掛かった日付の入ったプレートを見る。
確かに、もうすぐ休みが終わる。
紅のように人間界での戸籍を消してきたわけではないのだから、彼は学生生活…つまり、南野秀一に戻るのだ。
それを指しているのだろうと判断し、蔵馬は頷く。
「悪いけれど、一緒にはいけない」
「…理由を聞いても?」
「向こうに戻った所で学校に行かなければならないわけでもないし、暁斗を残してはいけないわ」
躯のところに預けたままの彼の所にも、そろそろ顔を出してやらねばなるまい。
暁斗の名前を出した所で、蔵馬は納得したように頷いた。
「なら…紅は魔界に残るんだな?」
「そうなるわね」
コツ、と足音を響かせて彼の元まで歩いていく。
手の届く所まで近づいてきた彼女に向けて、蔵馬が己の右手を差し出した。
それに自身の手を重ねるようにして更に距離を詰める。
「…理由はそれだけ?」
「………恐らく、雷禅がもう長くはないと思うの」
最後に会った時からの時間の経過と、あの日の彼の様子を考えれば、自ずと限界は見えてくる。
やや声を落としてそう言った彼女に、小さく溜め息を吐き出す蔵馬。
「まぁ、そう言う理由があると思ったよ」
暁斗のためだけに魔界に残るとは言わないだろう。
いや、それが大部分を占めることも確かなのだが…あと一歩を踏み切らせる何かがあると思ったのだ。
彼女の言葉は、蔵馬からすれば予想の範囲内だったと言える。
「雷禅か…」
「幽助も到着したらしいから、ついでに顔を合わせておこうと思っているのよ」
らしい、と言うのは彼女自身が見聞きしたわけではなく、悠希からの報告によって知ったからである。
言わずとも理解していたのか、蔵馬は頷いた。
「出来るだけ早く戻るようにはするけど…」
「大丈夫よ。黄泉にどうにかされるつもりはないから」
「…あぁ、それは心配してない。ただ…気に入らないな」
蔵馬はそう言って若干眉を潜める。
そんな彼の様子に、紅は首を傾げた。
今までの会話の中で、彼にそんな表情をさせるような内容があっただろうか。
「他の男の為に魔界に残るって言うのが、ね」
疑問符を浮かべた紅に気付いたのだろう。
彼は苦笑交じりにそう言った。
あぁ、なるほど。
雷禅とは言え、彼にとっては「他の男」なのだろう。
「あなたの友人の父親に興味はないわよ」
「…そう言うと、何だか泥沼な関係みたいだな」
恋人の友人の親と関係を結ぼうものなら、立派な不倫に浮気だ。
三流昼ドラマのような展開になりそうだ、と苦笑いを浮かべる。
「魔界に来ると本性がむき出しね」
そう言って、紅は彼の首に己の腕を回す。
そのまま腰を引き寄せられれば、座っている彼の膝に跨る形に向き合う事となった。
慣れた調子で髪を梳く紅の指の動きに、蔵馬の目が細められる。
「嫉妬もある意味本能だから」
「それもそうね。大丈夫よ。雷禅はあれで一人の女の為に死にそうになってるような、一途な妖怪だから」
「…身も蓋もないな、その言い方だと」
「あら、事実よ」
ケロリと答える彼女を見ていると、本当に友人なのだろうかと疑問に思えてくる。
しかし、一度は会ってきたという彼の元にもう一度足を運ぼうと言うのだ。
それが蔵馬に向けるものとは別の思いであれ、紅自身が彼を気にかけているという事は明白だ。
「わかったよ。雷禅の件に関しては、目を瞑っておく」
「ありがとう」
「暁斗は連れてくるのか?」
「いいえ。顔を出すだけ。黄泉の元にあの子を連れてくるつもりは無いわ」
即座に答える彼女に、蔵馬は「安心した」と笑みを浮かべる。
自分の実力が敵わないと分かっているからこそ、黄泉の傍に我が子を置いておきたくはない。
これから人間界に戻らねばならないのだから、尚更だ。
紅が友人だと言う躯の元に居る方が、いくらか安心できると言うもの。
「多分暁斗は拗ねるだろうけれど…」
「それは仕方ないな。耐えてもらおう」
「…酷いわね」
紅はクスクスと笑う。
確かに耐えるしかないのだが…子供にそれは酷と言うものだろう。
尤も、親の心配を知らないのもまた、子供と言うものなのだけれど。
「本当に…酷い親だな。あんな小さい頃から、傍を離れるなんて」
「私は物心付いた頃に捨てられたわ」
「…俺も、親の顔は知らないな」
「そう言う事よ。魔界ではこれが普通。あなたの考えは…随分と、人間染みているわね」
笑いを消す事無く紅はそう言った。
彼女の言葉に、そうかもしれないな、と思う。
いや、それが事実なのだろう。
魔界では普通だと思っていたし、自分も実際にはそうするのだろうと思って疑わなかった。
実際、息子が生まれてしまえば最愛の妻は息子に感け、それに感化されたように可愛がっているのだけれど。
想像と現実とは違うものだ。
「今から魔界流に…と言うのも無理があるな」
「当然ね。まぁ、諦めましょう」
どう足掻いたとしても、人間界の微温湯に慣れてしまった考えはすぐには戻りそうに無い。
いや…これは、もう二度と戻らないのだろうか。
親の優しさに触れ、親としてそれを与えてやりたいと思ってしまった。
南野秀一に愛情を注いでくれた母親と同じように、暁斗にもそれを与えたい。
面と向かってそんなことを言ったりはしないけれど、蔵馬の行動はそれに準じている。
薄々その事に気付いていた紅は、それを良い傾向だと受け止めて否定したりはしない。
魔界では普通ではないのかもしれないけれど、どうせ一般常識などあってないような世界だ。
型にはまる必要など、どこにもなかった。
「あと三日、ね」
日付から休みが終わるまでの期間を逆算し、そう呟く。
予想以上に小さくなってしまった声を聞いた蔵馬は、何も言わずに腕の力を強めた。
07.10.13