悠久に馳せる想い
魔界の風は、人間界とは違い舐めるようにぬるく、けれども刺す様に痛い。
頬を撫でたそれが金色に輝く髪を遊んでいく。
突如として築かれた都市を一望し、紅は目を細めた。
「佐倉様」
どこからともなく現れたのは、ここ数日はその存在を消していた悠希だ。
紅が手をついている手すりに飛び乗った悠希は、危なげなく彼女を見上げる。
「蔵馬様が魔界に入られました」
「…そう」
「すでに、黄泉の手の者が蔵馬様をこちらへと案内しているでしょう」
見上げてくる悠希から視線を外し、都市の方へとそれを動かした。
まだ紅の警戒網の中に彼の気配は無い。
けれど、数分もすればその一番外側でその妖力を捉えるだろう。
その時の事を思うと、少しばかり気落ちしてしまう。
「佐倉様…蔵馬様は、ちゃんと話せばわかってくださいます」
「…そう、だといいわね」
紅とて、彼が分かってくれないとは思っていない。
話が分からないような本能的な人ではなく、どちらかと言えば理性的な人だから。
けれど、彼女が心を痛めているのはそう言う事ではないのだ。
「私は、あの人を…」
裏切ってしまったのかもしれない。
その言葉は続かなかったけれど、悠希は彼女の意図するところがそこにあると悟る。
同時に、流れ込んできた主の心の痛みに表情を翳らせる。
「自分だけで出雲を見つけ出そうと思えば、この広い魔界…何百年かかるかわからない。
だからこそ、行方が知りたかった。だけど、今思うと…もう少し考えるべきだったのかもしれない」
ザァ、と風が吹く。
ずっと遠くを見つめたままの紅に、悠希は口を閉ざした。
「駄目ね。出雲の事となると…どうしても、いつもみたいに冷静に考えられない」
だからこそ他の冷静な者の意見が必要だったのかもしれない。
けれど、それを聞く暇すらも惜しく感じてしまった。
いや…惜しいというよりは、失念していたと言った方が正しいのかもしれない。
「出雲の件に関しては、致し方ないものでしょう。これしきの事で悩まれるなど、佐倉様らしくはありませんよ」
「…そうね。そうかもしれない」
力ないものではあったけれど、紅は薄く笑みを浮かべた。
苦笑に似たそれを浮かべるのとほぼ時を同じくして、彼女の空気が変わる。
その長けた能力で、慣れた妖気を感じ取った。
「蔵馬…」
数秒もすれば、彼の方も自分に気付くことだろう。
逃げる為に隠れているわけではないから、自身の妖気は殆ど抑えていないのだから。
紅の考えを裏付けるかのように、蔵馬の妖気が一瞬だが乱れる。
真っ直ぐにこちらへと向かってくる彼に、紅は人知れず溜め息を零す。
気を利かせたのか他に用があったのか、どちらとは判断できないが、悠希も姿を消した。
束の間の一人の時間を噛み締めるかのように、紅はそっと目を閉ざした。
「紅」
手すりに向かうようにしている彼女の正面から声を掛ける事は出来ないのだから、必然的に背中からになる。
そう冷静に分析してから、紅は短い息の塊を吐き出して振り向く。
そこには、全く変わらない様子の蔵馬が立っていた。
いや、その表情がやや硬い事を考えれば「全く」変わっていないわけではないのかもしれない。
「久しぶりね。と言っても…魔界として言えば、ほんの一瞬だけれど」
先ほどまでも不安など片鱗すらも見せぬように、彼女はクスリと微笑んだ。
その妖艶な笑みを前にしても蔵馬の表情は変わらない。
「何故自ら黄泉の元へ下った?」
その問いかけに紅は沈黙した。
蔵馬がそう言っている理由は一つ。
人間界の、彼女にまつわる大部分の記憶を消し去ったからだ。
ぽっかりと穴を開けたままの消失ならば、他の妖怪でも可能だろう。
しかし、その存在が始めからなかったことにするのは、よほどの妖怪でなければ出来ない事だ。
それは彼女自身に去る意思があったことを示している。
少なくとも、唐突で強制的なものではなかったということだ。
「…こんな物までつけさせて…」
いつの間にかすぐ傍まで来ていた蔵馬が紅の腕を取る。
そこには、あまり趣味がいいとは言えない腕輪が付けられていた。
これは遠隔操作型の爆弾が組み込まれた腕輪で、近日中に蔵馬が来る事を悟った黄泉がつけたもの。
人質としては妥当な所だな、と紅自身もそれを拒まなかった。
爆弾とは言え、自分に傷を与えられるような物ではない。
「あいつには近づくな。そう言っただろう」
ザワリと彼の妖気が変化した。
ここにはすでに紅の結界が張られていて、他の妖怪が蔵馬の変化に気付く事はない。
黄泉の耳ですら、二人の会話を聞き取る事は出来ないだろう。
サラリとした銀髪が視界をかすめ、誘われるように視線を上げる。
見下ろす冷たい双眸が映す感情の色に、紅は心中で苦笑した。
―――この人は己の裏切りを怒っているわけではない。
「黄泉には近づくなと言ったはずだ。もう、千年も前に」
「…覚えているわ」
「なら、今すぐ外す事だな。これ以上俺を怒らせるな」
目を細めた蔵馬に、紅は限界を悟る。
ゆっくりとした動作で腕輪に手を伸ばして、少しの力でそれを砕く。
「分かっているだろう。俺が何に対して怒っているのか」
蔵馬の時も怒らせれば背筋が逆立ってしまう。
しかし、妖狐の時の彼は、それに輪を掛けて酷い。
根底からの恐怖心を掻き立てるようなそれは、慣れない者では意識を保つ事も難しい。
ここまでの怒りを向けられる事は滅多にない。
「黄泉には別の人質を取られている。どの道、魔界には来る事になった」
そこを責めるつもりはない、と言った蔵馬。
人質になる事を理解しながら蔵馬の元を離れて魔界にやってきた事は、彼にとってはどうでもいいようだ。
彼の怒りの原因は他にある。
「黄泉は…あなたの逆鱗だったわね」
失念していたわ、とまるでそう思っていない単調な口ぶりで紅がそう答える。
そんな彼女に、蔵馬は無言のままにその身体を引き寄せた。
息すら掛かるような距離で彼女に問う。
「妖気を与えたのか?」
「…私が蔵馬以外に与えると思うの?」
「思っていない。だが、黄泉は強くなったらしいからな。この細腕を押さえつける程度、わけはないだろう」
そう言って、身体を離そうと伸ばした彼女の腕を押さえつける。
その力の強さに思わず眉を顰める紅。
「黄泉の相性が悪くなかったのは不可抗力よ。私が望んだわけじゃないわ」
黄泉が蔵馬の逆鱗であるという理由は、そこにあった。
まだ彼が蔵馬の部下であった頃の話。
彼も若かったと言うべきなのだろうか。
底知れぬ紅の妖力とその容姿に魅入られ、それを得ようと考えた。
その結果として蔵馬の怒りを買う事になり、それまでの事も影響して盗賊団を追い出されることになる。
紅の妖気は相性が悪ければ相手にとっては猛毒となる。
しかし、相性が良ければ、その能力値を一気に上昇させる事が可能なのだ。
「与えていないんだな?」
「あの頃は…拒む理由を持っていなかっただけよ。今は―――約束したじゃない」
―――心だけじゃなくて、髪一筋も触れさせるな。
いつだったか、彼にそう言われた。
忠犬のようにそれを守っているわけではないけれど、常に念頭に置くようにはしている。
それが証拠に、黄泉に気を許した事はないのだから。
「………出雲が関係しているんだろう。それくらいは分かっているつもりだ」
「…ごめんなさい」
「黄泉の元に一人で来るなど…そんなに、俺に嫉妬させたいのか?」
そう言って、痛いほどに掴んでいた手首を解く。
赤く残る自身の手の跡を見下ろした彼は、そのままそこに唇を押し当てた。
「野心家の奴の事だ。未だにお前を諦めたという事はないだろう」
隙を見せれば、すぐにでも掻っ攫われる。
蔵馬の言葉に紅は静かに目を伏せた。
「大丈夫だという自信があったから一人で来たの。だけど…そうね、あなたの独占欲の深さを忘れていたわ。
寧ろ、出雲の為とは言えあなたを契約に利用したから…その事が、心配だった」
呟いた彼女の本音に、彼は呆れた風に溜め息を吐き出した。
それから、掠めるように唇を重ねる。
「お前のためならば、利用されるくらいは気にしない。その程度の事も忘れさせるとは…妬けるな、出雲の奴も」
紅は彼の言葉に微笑み、軽い口付けを返す。
それから、再会の時を喜ぶように二つの影を重ね合わせた。
07.08.10