悠久に馳せる想い
握り締めた小さな手が赤いそれを流している事を知っていた。
俯いた顔は見えないけれど、その唇を噛み締めている事も、気付いていた。
気付いていながら、甘えを見せようとする己の心に鞭を打つ。
「また、迎えに来るからね」
そう言って彼譲りの銀髪を撫で、背中を向ける。
突き放すような行動だと分かっているけれども振り向く事はない。
木々の中に姿を紛れさせた所で、強く地面を蹴った。
躯の所も決して綺麗な外見とは言いがたい。
だが、ここはもっと自分に合わないなと思った。
ここの支配者の心を移したかのように、互いの探りあいを常とする場所。
いけ好かない空気だ、と思いながら、紅は案内されるままにそこを歩いた。
「こちらでございます」
そう言って大きな扉の前で頭を垂れたのは、外見も老け込んだ妖怪だ。
特に何を返すでもなく、彼が開いた扉を潜る。
その先に座っている人物を視界に捉え、僅かに眉を動かした。
「顔を合わせるのは…何百年ぶりだ?」
「大凡千年ぶりだ。強気な態度は変わらないな、佐倉」
ガタン、と彼が深く腰掛けていた座から立ち上がる。
そうして近づいてくる彼から逃げる事もせず、また己から歩み寄る事もせず。
表情を映さない冷めた目で彼の歩みを見る。
「だが…妖気は少し衰えたか」
「態々分かるように妖気を垂れ流す必要がどこにある」
すぐ前で立ち止まった黄泉を見て、紅はやや吐き捨てるようにそう言った。
そんな彼女の返答に、彼は顎を撫でてから答える。
「なるほど。だが、性格は少し丸くなったようだ。息子のお蔭か?」
「随分とよく聞こえる耳を得たらしいな。目の代わりに得た物が大きかったようで何よりだ」
「心拍数に一瞬の乱れも見せないとは…流石だな」
僅かに口角を持ち上げて嫌味を口にする紅に対しても、彼は笑みを深めるだけだった。
彼の両目が光を映す事はない。
代わりに、その耳は妖狐である紅よりも遥かに遠くの音まで拾う力を持っている。
視力がないことを差し引いても、余りあるくらいだろう。
「惜しむのは、お前の美しい顔を見ることが叶わない事だな」
「勝手に惜しんでおけ。貴様に見せる為にこの容姿に生まれたわけではない」
それよりも、と紅は周囲へと視線を向ける。
そして、先ほどから刺す様な殺気を放っている妖怪達を一瞥した。
彼らは皆いきり立つ寸前と言った様子で紅へと鋭い視線を向けている。
尤も、ここの支配者に対してこれだけ失礼な態度を取れば、当然だろう。
案内してきた年老いた妖怪でさえ、今しも紅に飛び掛りそうだ。
「随分と我の強そうな面々を揃えているな。これで成り立っている事に拍手したい所だ」
「今からその中に加わる者の言う事じゃないな」
「…加わるつもりはない。あくまで契約の上で、ここに居るだけだ」
そこだけは間違えるな、と強く言えば、がたりといくつかの席の妖怪が立ち上がる。
まず限界を迎えたのは、4人らしい。
少ないといえば少ないし、多いといえば多い。
別にどちらと判断する必要はないだろうと、紅は彼らへと向けた視線をものの3秒で黄泉へと戻す。
「それで?蔵馬はいつここに来る?」
「一ヶ月後だな」
「ならば、それが期限だと思ってもらおう。その後は、好きにさせてもらう」
そう言うと、紅はそのまま踵を返す。
入り口の所にいた妖怪がどうすべきか…とでも言いたげな視線を黄泉へと向けた。
そんな視線に答えず、彼は紅の背中を呼びとめる。
「雷禅は元気にしていたか?」
「…自惚れるな。私があいつを売るとでも思ったか?」
「ほぅ…蔵馬は利用しても、雷禅は利用しないと言う事か」
「………一ヶ月…。お前の首が無事に胴体と繋がっている事を祈ろう」
あまり不用意な発言をしないことだ。
支配する者とされる者を錯覚してしまいそうな言葉を残し、紅はそこを去る。
「黄泉様!あのような者をこの場に置く事は反対です!」
「利用出来ぬならば、いっそ始末されるが得策かと思われますぞ」
「折角雷禅が弱っているというのに、国内に不穏因子を置くわけには…!」
口々に声を上げる部下を前に、黄泉は思わずその口角を持ち上げた。
自分に対する態度は、本当に変わっていない。
寧ろ…今となっては、仇に対するようなそれだ。
黄泉にとっては予想内の事で、特に驚く必要もない。
「佐倉をお前達でどうにかしてみるか?傷一つ付けられずに胴体に別れを告げるのが落ちだ」
ククッと喉で笑うと、彼は先ほど座っていた座へと腰を下ろした。
己のよく聞こえる耳をもってしても、彼女の足音は酷く聞き取りにくい。
意図的としか思えないほどのそれは、彼女の居場所を隠すには十分だった。
すでに遠くまで去ったのか、それともまだこの部屋の付近に居るのか。
それすらも分からない自分の聴力が、少し歯痒い。
どれほどに極めたつもりでも、結局の所彼女には遠く及ばないような気がして。
「止めておけ。佐倉は…本来ならば、俺に代わって三竦みの一人として魔界に立っていた妖怪だ」
彼女がこの位置に居たならば、力同士の対立はなかったのかもしれない。
雷禅や躯と良い関係を結ぶ事で、各国の拮抗を保つ事が出来ただろう。
現に、彼女は他の二人の国を訪れて門前払いにされる事もない。
黄泉の静かな言葉に、いきり立つ部下達は徐々に腰を下ろした。
彼に代わって、と言う事は、それだけの実力があるということだ。
足元を掠める事すら危うい彼と同等だというならば、最早自分達には何も出来まい。
「さっき聞いたと思うが、佐倉は一ヶ月はこの国に滞在する事になるだろう。軽率な行動は控える事だ」
やや声を落としてそう言った黄泉の言葉は、どこか現実味を帯びている。
まさか、と笑い飛ばす事はすでに不可能だった。
「しかし、それほどの実力の持ち主ならば…一ヶ月後に来る妖狐を使って、飼いならしてみては?」
一人がそう提案の声を上げた。
なるほど、その手があったか。
半数ほどからどこか納得したような表情が向けられる。
しかし、当の黄泉はその提案に眉を顰めた。
「それは佐倉の逆鱗に触れる。あいつの手の届く範囲で蔵馬に手を出せば、この国が滅びるだろう」
噂を聞く限りでは、彼女は今でも蔵馬を一番としているようだ。
約一千年前、自分がまだ彼らの部下として働いていた頃。
あの時の様子を思い出して、黄泉は脳裏に彼女の姿を浮かべた。
魅了されない者は居なかったと思う。
それほどに、その眼差しは鋭気に満ちていて、容貌は美しい。
その気になれば落ちない男はいないだろうという彼女は、ただ一人だけをその目に映していた。
彼女の一途なまでの想いを向けられる彼が羨ましくもあり、同時にそれが当然だとも思える。
初めから一つのものであったかのように、彼らは同じ物を見て、同じ考えを持っていた。
「佐倉が契約を違える事はない。とにかく…今は佐倉よりも、雷禅や躯だ」
声を改めてそう言った彼に、一同も同じく気持ちを入れ替える。
今後についての話を始めた所で、室内は漸くいつもの空気を取り戻した。
「…」
壁に凭れていた紅は、やがてゆっくりとそれを離れる。
黄泉の言葉により、蔵馬が自分の所為でどうにかされる事はなさそうだ。
裏を返せば「手を出すならば彼女の手の届かない所で」とも取れる発言ではあったけれど。
「届かずとも…殺すさ。例え、地の果てであったとしても」
呟いた声は、恐らく黄泉には届いただろう。
僅かに妖気が乱れたのがその証拠だ。
クスリと笑みを浮かべ、紅は今度こそ本当にそこを去ることにする。
態と足音を響かせ、どこへともなく消えた。
07.07.27