悠久に馳せる想い

魔界へ来てから一週間経った。
日に何度か躯に手合わせをしてもらっているらしい暁斗は、ここに来てから着実に力を伸ばしている。
すでに、躯の配下を何人か潰してしまったほどだ。

「暁斗、躯」

今日も派手な音を立てながら手合わせをしていた彼らの元に、紅がやってきた。
いつまでも人間の姿である必要性を感じなかった彼女は、本来の姿である佐倉のそれを取っている。
妖気のぶつかり合いが酷く、この場所へは他の妖怪はあまり近づこうとはしない。
弱い者ならば、ぶつかって弾けた妖気だけで命を落とすからだ。
紅の声にいち早く反応したのは暁斗の方だった。
彼は今まさに躯の背中から打ち込もうとした妖気の塊を瞬時に消すと、顔にパッと笑顔を咲かせる。
それから、文字通り飛ぶようにして紅の元へと駆け寄った。
中断された躯はと言うと、彼の反応に苦笑いを浮かべている。
先ほどの一撃、紅の声がなければまともに食らっていたかもしれない。
それを考えると、彼の成長振りは躯自身も目を疑うほどであった。

「邪魔をして悪いわね」
「いや、構わない。暁斗は嬉しそうだからな。それより、どうかしたのか?」
「そろそろ雷禅の顔でも見に行こうと思って」
「なるほど」

納得したように頷く躯。
彼女に対し、暁斗はよく聞くけれども知らない人物の名前に首を傾げた。

「らいぜんって?」
「三竦みの一人よ。私一人で行ってもいいんだけれど…暁斗を見せたいから」

一緒に来てくれる?と暁斗に問いかければ、彼は迷いなく「うん」と返した。
それから、紅の腕を解いて「着替えてくる」と言ってその部屋を出て行く。
彼を見送ると、紅はどこか真剣な表情で躯へと向き直った。

「躯、あなたに頼みがあるわ」
「雷禅に会った後、もう一度ここへ来る。そうしたら…暁斗を預かって欲しい」
「………黄泉か」

躯の言葉に紅は何も言わなかった。
だが、それが肯定である事を示している。

「あの子を巻き込みたくはない。幸い、躯には懐いているようだし…」
「黄泉の所に行って、何を…?」

躯は紅の物言いに疑問を抱き、眉を潜めつつそう問いかける。
彼女の問いに、紅は薄い笑みを返した。

「蔵馬を呼ぶ餌にするつもりだろう。恐らく、決着がつくまで…黄泉が私を手放す事はない」

そうすれば、蔵馬が自分の元を離れる事ができないと、彼は知っているから。
黄泉の性格を考えれば、きっと自分以外にも二重三重の策を練ってあるはず。
その最後の砦として選んだのが、他でもない紅と言う人質と言う事だ。

「紅、お前の実力ならば黄泉程度の妖怪、敵ではないだろう?」
「…そう…かもしれない。けれど、私は手を出すつもりはない。私の相手すべき者はただ一人」
「………まだ、出雲との決着をつけていないのか…」
「もう少しの所で逃げられた。その後を知らない。だが…黄泉が、そのよく聞こえる耳で情報を得ているらしい」

そう…それが、紅が彼と交わした取引だ。
自ら蔵馬を呼ぶ餌となる代わりに、出雲の情報を得る。
出雲が取引に出ているからこそ、本来ならば蔵馬を巻き込まない為にも頷く筈がない条件にも頷いた。

「鬼ごっこは次で終わらせる。私は、その為に蔵馬を…」

彼を、利用するのだ。
人間界から己の痕跡を全て消し去り、大嫌いな霊界の手を借りて魔界へと舞い戻った。
当然、蔵馬たちの記憶は残してある。
だからこそ、彼は必ず魔界へとやってくるだろう。
彼が黄泉の元へと訪れた時点で、取引は成立する。
分かっているけれど、彼を利用すると考えただけで胸に鉛を仕込まれたような気分になるのだ。
何よりも大切な人なのに、その足枷になってしまうことが苦しい。

「…紅、お前は少し優しくなりすぎたな」

己の腕に爪を立てる彼女を見て、躯は静かにそう言った。
数百年前の佐倉とは、全くの別人のように変わってしまっている。
あの刺すような空気も纏っていなければ、射抜くような鋭い眼差しもない。
姿は同じなのに、彼女は変わりすぎていた。

「魔界を生きてきた躯ならば、愚かな変化だと思うのも無理はない」
「ああ。実に馬鹿げている。他人に対する優しさは、この魔界では付け入られる隙になる」
「………あの男を殺せないお前が、それを言うのか?」

クッと口角を持ち上げてそう紡いだ紅の目に、あの頃の佐倉のそれが被る。
紡がれた言葉に躯の纏う妖気が変わった。
ザワリと肌を刺すようなそれに、紅はただ笑みを深める。
移動要塞が動きを止めるほどに、その妖気は凄まじかった。

「愚かだよ、私達二人は。優しさに溺れて、それを手放す事を恐れている。だが…」

一歩、一歩。
紅はゆっくりと躯へと近づいていく。
そして、両腕を持ち上げて躯の顔を挟むようにしてその首の後ろへと手を回した。
数秒そうしていたかと思えば、スッと身を引く。
躯の胸元には赤い絳華石のペンダントが揺れていた。

「私達は今を生きている。どんな姿であれ、どんな思考であれ…生きていれば、それでいいと思わないか?」
「――――…生きていれば…か」

重力が消えたかのように、その場の殺気が音もなく消え失せた。
程なくして、移動要塞が動きを再開した音と振動が二人の足元から伝わってくる。

「お前は優しくなりすぎた。だが、逆に強くもなったようだな」
「私もそう思う。守るべき者が出来て…強くなれた。もう、出雲の影から逃げていた私ではない」

あの頃の自分は彼から逃げるように各地を点々としていた。
そうして、躯や雷禅と出会ったのだ。
彼らとの語り合いはいつも無傷と言うわけではなく、酷い時には何日にも跨ぐような怪我もあった。
けれども、それが心を安らがせていたのもまた、事実だった。

「終わらせる。その為に、私は黄泉の元に下る」
「なら、俺はお前の背中を押そう。例え敵同士になろうとも…お前が、己の過去に決着をつけられるように」
「…感謝するわ、躯」

そう言って笑った躯に、紅は何も言わずにその身体を抱きしめた。
自由を得るために失った半身は硬い機械。
けれど、もう半身は確かにその生命の流れを感じさせていた。
こんな姿になろうとも、躯は確かに生きているのだ。
何も言わず、彼女も紅の背を抱く。

「魔界でも愛情を育む事は出来る。ならば、友情も育とは思わない?」
「あぁ、もちろんだ。俺の生涯の友は目の前に居る」
「光栄ね。私も、同じ」

身体を離すと、二人は静かに笑いあった。
数百年を経て再会したからこそ、こうして穏やかに笑う事もできる。
あの頃は、どちらも生きる事が精一杯で、笑っている余裕などなかったのだから。

「暁斗は俺に任せろ。あいつは鍛え甲斐がある。次に会った時には、きっと目を見張るだろうよ」
「あの調子で鍛えてもらえば、伸びるでしょうね。楽しみにしておく」
「あぁ。…この絳華石は、貰っても良いのか?」

躯の問いに、紅は「もちろん」と返した。
そして、彼女の胸元の絳華石を指先で拾い、最後にもう一滴とばかりに妖力を注ぐ。
ほんのりと赤く光るそれを見下ろし、躯が感嘆の息を零した。

「これが絳華石か…美しいな」
「見るのは初めてだった?」
「あぁ。昔のお前は、絳華石は己の命だといって見せる事すら拒んだ」
「そう…言った事もあったわね。今は、これを誇りだと思っている」

それを渡すという意味を、躯ならば正しく理解してくれるだろう。
そんな思いを含ませた目を向ければ、彼女は沈黙と共に頷いた。









「…遅いな」
「…そう言えば、そうね」
「………あぁ、そうか。悪い」
「何を急に謝ってるの?」
「俺の妖気に中てられたんだろう」
「………………………」

長く沈黙してから、紅は部屋の入り口へと歩いていく。
開けっ放しにされていたそこから顔を出せば、壁にもたれるようにして蹲っている暁斗が見えた。
どうやら、気を失うほどではなかったようだが、多少なりとも影響はあったようだ。

「暁斗、大丈夫?」
「へ、いき」

そう強がるけれど、手は紅の着衣にすがり付いてしまっている。
彼にはまだ辛いのか…と納得しつつ、落ち着かせるようにとその頭を撫でた。

07.06.22