悠久に馳せる想い
朝から具合が悪そうだった母親を心配した蔵馬は、平日であるにも拘らず昼前まで登校しなかった。
病院で薬を貰い、容体が安定した所で登校した彼。
真面目な彼が遅刻すると言う事は珍しく、昼休みであったことも手伝って、クラスメイトに囲まれる。
それから逃げるようにして、彼は別のクラスへと足を運んだ。
だが、肝心の紅の姿が見当たらない。
この時間ならばいつでも自分を待っている彼女が居ないことに、疑問符を浮かべる。
彼女も休みだろうか?そう思った彼は、近くに居た女子生徒に気付いた。
確か、紅とはそれなりに交流のあった生徒だ。
「あ、ちょっといいかな」
「はい?…え!?み、南野君!?」
焦ったような、照れたような…そんな反応に、蔵馬は新たな疑問を抱くことになる。
彼女とは何度か紅を通して顔を合わせていて、今更こんな反応をされる理由が見当たらない。
確かに一番初めに顔を合わせた時には似たような反応だったけれど。
「紅がどこに居るのか知ってる?」
「え?」
質問の意味が分からない、と言った様子の彼女に、蔵馬の疑問は膨らんでいく。
それに誘われるようにして、第六感が告げる『嫌な予感』までもがすくすくと成長し出した。
「紅って…誰?このクラスの子?」
「何を…」
馬鹿なことを、とは言わない。
その代わりに、紅の席であった廊下側の前から三番目の机を指し、再度問いかける。
「ここの席の子なんだけど」
「え…ここの席は山城君の席で…。紅って、女の子の名前でしょう?」
「…っ……ごめん。気のせいだったみたいだ」
そう言うと、引きとめようとする彼女の声を聞かなかったことにして廊下を走る。
そうして同じ階にある図書室へと入ると、奥の棚へと歩いていく。
記憶を掘り起こし、順番に棚を確認した彼は、日本の歴史と言う棚の所で立ち止まった。
順に見落とさないよう目を凝らし、やがて目当ての一冊を見つける。
『ねぇ、秀一。人間の歴史が分かり易い本ってないかしら?』
『…じゃあ、これを読むといいよ。丁度返そうと思っていたところなんだ。難しいけど、紅なら大丈夫』
数ヶ月前に交わした会話が脳裏を過ぎる。
耳が痛いほどの心音に眉を潜めつつ、その一冊の本の背表紙を開く。
『予想以上に面白かったわ。ありがとう』
『期待に応えられたみたいで嬉しいよ。もう返すの?』
『ええ。全部読み終わったから』
マイナーな部類に入る本の貸し出しカードには、片手で十分な人数の名前しか記載されていない。
それを上から下へと目で追っていき、自分の名前を見つける。
そして、その下には―――
「……紅…?」
どこを見るでもなく、顔を上げて姿のない彼女を探す。
自分の名前の下にずらりと続く空白が、蔵馬の肩に重く圧し掛かった。
トン、と足を付いた所で腕に抱いた暁斗を地面に下す。
彼は嬉しそうに尾を揺らしながら、魔界の少しだけ淀んだ空気を吸い込んだ。
「まさかこんなに早く帰れるとは思わなかった!」
「そうね。これも、霊界のお蔭と褒めるべきかしら」
「霊界も母さんを前にすると弱いね、ホントに」
白けるよ、などと呆れた風に言いながら、彼は爪先の前にあった小石を蹴る。
軽く蹴っただけなのに風を切って飛んでいくそれに、本来の調子が戻っていると気付いた。
「無理を言ったコエンマには申し訳ないことをしたわ」
「いいじゃん、別にさ。霊界の奴らだって、最終的には喜んでた…」
暁斗の耳がピクリと動いた。
彼は言葉を半ばで止めて周囲へと意識を向ける。
明らかに広がる警戒網に、紅は僅かに口角を持ち上げた。
「大丈夫よ」
「でも、何か…馬鹿みたいな妖気が来る…っ!」
「だから大丈夫なの。私の友人だわ。それにしても…この音は何かしらね」
先ほどから聞こえてくる、何かが這いずって来る様な音だ。
木の葉の揺れのような小さなものではなく、足元を揺るがすそれ。
やがてその音が止まったのに気付くと、まず紅が歩き出した。
「母さん?」
「どうやら、ここには入れないらしいわ。森を出るわよ」
あの音の大きさからして、それはかなりの大きさなのだろう。
生きた森とも呼ばれる、この木々の鬱蒼と生い茂った森には入れないらしい。
不安定な足元を物ともせずにスイスイと進んでいく紅を追って、暁斗は地面を蹴った。
「母さんの友人って、強いの?」
「あら、この妖気の大きさで分からない?」
「分かるよ!父さんよりも強い!」
嬉しそうにそう答えた暁斗に、妖怪独特の好戦的な血の流れを感じる。
期待に満ちた目にクスリと笑い、紅は森の終わりを見た。
「戦える?」
「さぁ、それは彼女次第ね」
森を抜け、ザッと視界が開ける―――筈なのだが、前には壁。
いや、壁のようなもの、と言うべきか。
「…移動要塞ね。いつの間にこんなものを…」
「さぁ。何十年前だったか、何百年前だったか…良く覚えていないな」
壁だと思っていたものを見上げた紅の耳に、そんな返事が返って来る。
仰ぐほどの巨大な百足の中ほどから、外に向けて飛び出している箇所に、彼女は居た。
「入って来い。お前達を歓迎しよう。美味い酒を用意してある」
「ならば、邪魔することにしよう。暁斗、おいで」
数百年ぶりの再会は、実にあっさりしたものだった。
一室へと通された紅と暁斗は、お世辞にも趣味が良いとは言えない椅子に腰掛けていた。
程なくして、この要塞の主、躯が姿を見せる。
「せめて顔くらいは見せて欲しいわ」
「第一声がそれとは、何ともお前らしいな」
お互いにクスリと笑うと、躯は自身の顔を隠す包帯を解いていく。
やがて露になったそれに、紅も、そして暁斗も驚いた様子はなかった。
魔界で生きていれば、もっと酷い顔だって見る機会はある。
寧ろ、躯はまだ見れる顔だといっても過言ではない。
「久しぶりね、躯。佐倉を改め、今は紅と名乗っているわ。こっちは息子の暁斗」
「紅、か。人間のような名だが、似合っているんじゃないか」
ガタンと椅子を引いて彼女たちの向かいに腰を下ろした躯は、紅の次に暁斗へと目を向ける。
緊張しているのか、少しだけ顔が強張っていた。
「しかし…噂には聞いていたが、本当に息子が居るんだな。いくつだ?」
「え?あ…50…くらい」
「気にするな。俺だって自分の歳は覚えていない」
明確な数字を出すことが出来なかったことに耳を伏せた暁斗に、躯が口角を持ち上げてそう答える。
彼は噂に聞いていたのとは全く異なる躯の雰囲気にやや戸惑っているようだった。
「数百年も経てば、変わるものだな。お前がそんなに柔らかくなっているとは思わなかったぞ、紅」
「まぁ、変わったのは認めよう。躯と別れた頃は、一番荒れていたといっても過言ではない」
「あれから一時期囚われの身になったと聞いたが?」
「あぁ。その情報は間違っていない。躯と別れて、殆どすぐに…な」
懐かしさから、その口調までもが自然と戻っていく。
それでも柔らかさを失ってはおらず、暁斗は二人の会話を黙って聞いていた。
「妖狐蔵馬に救われて、そこから共に生きている」
「そうなると、暁斗は…聞くまでもないな。強いか?」
「まだまだ、これからよ」
暁斗の話に移ったところで、紅の口調が変わる。
母親としてのそれを感じさせる声色に、躯は軽く目を細めた。
「ところで、その妖狐蔵馬はどうした?一緒ではないようだな」
「………取引をしているの」
「…黄泉か」
「よくわかったわね」
「今の時期に取引を持ちかけるような奴は黄泉以外には知らん。雷禅はそんな姑息な手を打つ男ではないからな」
そう言うと、躯は椅子から立ち上がる。
そして、机に手を突いて暁斗を見下ろした。
「今日は気分がいい。暁斗、相手をしてやろう」
「え!?」
「さっきからその目が『戦え』と語っていた。場所を移すぞ」
クルリと踵を返して入り口へと歩いていく彼女に続き、紅も席を立つ。
それに続く暁斗は戸惑うように紅を見上げた。
「躯も本気を出す事はないはずよ。強い者と戦うのは成長への近道。やってみなさい」
拒む理由はなくなった。
躊躇いつつも、自分の中で彼女に挑戦したいと訴える血が騒ぐ。
ぐっと拳を握ってから、彼は先を歩いていた紅に追いつくように駆け出した。
07.06.16