悠久に馳せる想い
「また…随分と荒れてるな」
紅の家…つまりは、幻海の家を訪れた蔵馬は、第一声にそう呟いた。
彼の脳裏に、家まで続く道でそこここと倒れこんでいた妖怪達の骸の光景が過ぎる。
どれもが楽な死を迎えたとは到底思えない傷を負っていて、それが誰の手によるものであるかは残った妖気でわかる。
魔界への穴が塞がってからも、人間界に取り残されてしまった弱小妖怪達が悪さをしていた。
もちろん霊界の対応もあったのだが、彼らは発見から行動までが長い。
結果として、妖怪は妖気に誘われて紅や暁斗の元へと押しかけてくることが多かった。
そのどれもが、彼らの周囲の空気を動かす事すらできずに骸と化したのは言うまでもない。
そうして、この三日間でも少なくとも二桁が三桁に移ろうと言うくらいの数を倒した。
いい加減に苛立ってきているのか、半ば八つ当たりのように攻撃を繰り返しているのは暁斗の方。
紅はと言えば、彼が先に動き出すので好きにさせている。
彼女自身も、そろそろ面倒になってきていたので都合よく彼に任せているのだろう。
そんな中、蔵馬は彼女らの元へとやってきたと言うわけだ。
「荒れているのはそれだけじゃないわよ」
湯飲みから茶をすすりながら、紅は蔵馬にそう答える。
彼もまた、彼女によって用意されたそれに手を伸ばしながら首を傾げた。
「魔界へ帰り損ねた事がどうにも引っかかっているみたい」
人間界の空気は合わないみたいね、と呟く。
そう、暁斗が苛立っているのは、一度は魔界に帰れたというのに、再び人間の地を踏まねばならなくなった事。
あの時には紅にしがみ付くようにしていたから、残るなんていう選択肢は彼の中には浮かばなかった。
だが、人間界に戻ってみて、漸くそれに気づいたのだ。
母親から離れたくない手前、帰ろうと強請る事もできない。
そんな苛立ちが、偶然彼を狙ってきてしまった弱小妖怪へと向けられているのだ。
「あぁ、そう言う事か…」
「人間界の、この微温湯のような空気が性に合わないんですって」
どうしようもない事なのだが、どうしたものかと悩んでしまうのは彼が自分達の息子だからだ。
普段どんな扱いをしていようとも、その行動は全て愛情から来るもの。
イライラと妖怪を倒し続ける彼を見れば、頭を悩ませるのも無理はなかった。
かといって、二人に何が出来るわけでもない。
恐らく霊界に「帰りたいから魔界への道を開け」と言えば、喜んで行動に移してはくれるだろう。
しかし、それが安全かと問われれば頷きかねる所だ。
霊界にとっては、紅の結界ほど迷惑で、それで居て切望しているものはない。
彼女の結界は魔界のS級妖怪すらも阻むものなのだから、当然だ。
こちらの手に入らないならばいっそ…と考えるのもおかしくはない。
「暁斗だけを帰してやったらどうだ?」
「帰ると思うの?」
あの子が?と質問を返す。
そんな彼女のそれに、蔵馬は苦笑した。
とてもではないが、帰るとは思えない。
彼が魔界に帰る事を頷くのは、紅が一緒の時だけだろう。
先日の仙水の一件があるからこそ余計に、彼は彼女の元を離れる事を拒む筈だ。
「なら、慣れてもらうしかないな」
「そう言う事よ。まぁ、今はその苛立ちが人間に向けられていないからいいけれど…」
「向けそうになったら、教えてくれ。俺が話してみよう」
「そうね。お願いするわ」
少しだけ困ったように微笑んだ彼女の手を取って、自身の指を絡める。
そうして触れ合う互いの体温が溶け合うのが、どこか心地よい。
「最近は何も問題ないか?」
「妖怪が来る以外は…特には」
彼が言っているのが出雲に関連する事だと言う事は、紅にも分かっている。
だが、そう答えるしかないのもまた事実だ。
魔界で姿を消した彼は、人間界へは戻ってきていないようだ。
いつかは決着をつけなければならないだろうが―――その場所を、人間界にはしたくないらしい。
「いずれ、魔界に戻る時が来たら…決着をつけることになるでしょうね」
それが1ヶ月先か、1年先か、100年先か…どうなるかは分からない。
けれど、その時は必ず訪れるだろう。
出来る事ならば、紅としてはすぐにでも決着を付けたかった。
あの時、少なからず自分との話の中で動揺が見られたからだ。
鉄は熱いうちに打て―――それと同じように、彼の中にその時の感情が残っている間でなければ、意味がない。
蔵馬に繋がっていない方の手で、胸元に提げた絳華石を拾う。
血が固まって生まれた赤いそれに、自身の目が映りこむのを見た。
「一人で解決しようとするな」
「…わかっているわ。暁斗にも随分心配させてしまったみたいだし…」
これ以上はね、と苦笑を浮かべてから、蔵馬の肩へともたれかかる。
亜麻色の髪が揺れるのを眺めながら、その光景がどこか懐かしく感じた。
仙水との戦いの間はずっと佐倉の姿だったから、余計にそう感じるのだろう。
「ねぇ、私達はいつまでこうしていられるのかしら…」
「…自分達の家族が居る間…かな」
蔵馬は紅の言葉に自嘲の笑みを零しながらそう答えた。
彼女の言葉の意味は、いつまでこうして人間の姿を取り、人間界にいられるのか…と言う事。
紅自身がそれを強く望んでいるわけではないが、離れがたくなってきている事もまた事実。
何より、蔵馬に帰る意思がない以上、紅にもその選択は必要なかった。
「まさか、人として一生を終えるつもりは…」
「もちろん、ないよ。いずれ、魔界に戻ろう」
本当の姿で、と紡ぎながら、蔵馬は絡め取った紅の手の甲に唇を押し当てる。
柔らかくあたたかなその感触に、紅が僅かに息を呑む声が耳に届いた。
「元は妖怪の俺達だ。いずれ、あるべき場所に戻る事になるさ」
妖怪と人間では、決定的な違いがある。
それは成長の速度だ。
数百年の時を生きる妖怪と、百年も生きられないのが一般である人間。
当然、目に見える成長過程も大きく違ってくる。
暁斗がいい例だろう。
彼の年齢は、見た目を5倍以上しなければならない。
周囲の人々が生まれ、成長し、そして年老いていく。
しかし、紅たちには老いると言う事がない。
蔵馬は今まで妖力を失っていたお蔭で、人としての成長速度を保つ事ができた。
だが、妖力を取り戻した今、彼もまた、その成長を遅れさせる事になるだろう。
紅に至っては、最早人としての外見が成長する事はない。
あえて意識して成長させなければ、自然な変化を望む事は出来ないのだ。
そんな自分達が、人間の中で生きていける筈はない。
いずれ周囲との歪が生じてくる事は必至だ。
「寂しい?」
「さぁ、どうだろうな」
その時になってみないと分からない。
そう答えた蔵馬に、紅は「そう」と呟いた。
ふと、その言葉の後に抱いてしまった疑問を口にすべく、彼を見上げる。
「もし、人間の姿のまま子供が出来たら…その子は人間なのかしら?それとも妖怪?半妖ってことも考えられるけど」
「…なんなら、試してみる?」
そう悪戯な笑みを返され、紅は珍しく目を見開く。
そんな彼女にクスクスと笑うと、彼は赤く熟れた唇を己のそれで掠めた。
大人の口付けと呼ぶには些か可愛らしすぎるそれに、今度は紅がクスクスと笑いを零す。
「冗談。高校生の母親なんて、隣近所の噂になるわ」
「隣近所も何も…山だけど?」
「でも駄目。少なくとも、卒業するまでは…ね」
戯れるように瞼や頬に唇を落としてくる蔵馬に、紅は笑いながらもそれを受け止める。
魔界では自然に気を張り詰めていて、こんなにも全身で平穏を感じるのはごくごく少ない時間だった。
だからこそ、暁斗の称した微温湯と言う言葉は良くわかる。
けれど、それを抜け出すことが難しくなっているのも…自分自身で、分かっていた。
いつの間にかフローリングの床に転がっていた紅を、蔵馬が真上から覗き込む。
「卒業したら、試してみるか?」
「…さぁ。それはお任せするわ」
蔵馬の好きなように、と答えた紅の唇に、彼のそれが重ねられた。
この平穏が嵐の前の静けさであったとしても、この一瞬を拒む事は出来ない。
刻一刻と迫り来る次なる足音が、もうすぐそこまで迫っていた。
07.05.26