悠久に馳せる想い
岩の壁にもたれた紅は、自身の手を見下ろした。
何度か握ったり開いたりを繰り返して、その動きに淀みがないことを確認する。
先ほどまでの、あの瞬きさえも苦痛であったその名残は一切ない。
巻原を倒せば桑原を返す。
仙水はそう言って巻原を幽助たちに差し向けた。
彼と対峙する役を買って出たのは、蔵馬。
先ほどから感じる彼の負の心に、紅は僅かに目を細めた。
心を閉ざしている。
けれど、自分はそれを感じる。
全てを隠すことの出来る彼が、自分にだけ気付かせているのだろう、と思った。
それは、自分だけに許された特権でもある。
それにしても…と、紅は巻原を見た。
「鬱陶しい…もはや寄生虫ね」
忌々しいものを見るように、紅の目は酷く冷め切っている。
すでに、それは人を見る目ではなかった。
蔵馬が気づいていた事に、本来の妖怪の姿を取り戻している紅が気づかない筈がない。
頬に掛かった金の髪を耳へと掛け、蔵馬の動きを見つめる。
いつの間にか取り出されていたローズウィップが足元の地面を打つのを、静かに眺めた。
欲に塗れた浅はかな者の末路になど興味はない。
ただ…彼が戦う姿は、何度でも見たいと思う。
繊細で、けれどどこか美しく、そして鋭い。
妖狐の時には劣るものの、その名残を十分に感じさせる蔵馬に、紅は僅かにその口角を持ち上げた。
一瞬で巻原の頭部が両断される。
そのグロテスクな光景を見たとしても、その口元の笑みは消える事はなかった。
「立て、戸愚呂」
蔵馬の冷めた声に、幽助らは驚いた。
何故ここでその名前が出てくるのかがわからない。
「初めから、巻原という男の身体は戸愚呂に乗っ取られていたのよ」
「紅!?い、いつの間に!」
「折角の蔵馬の雄姿、遠い所で見るのは勿体無いじゃない?」
そう言って、紅は艶やかな笑みを浮かべて悪戯に微笑んだ。
蔵馬が関係している時だけ柔らか味を帯びる、そんな偶にしか見せない表情は酷く男心を擽るものだ。
それを視界から蹴り出すようにして、幽助は無理やりに蔵馬たちのほうへと視線を固定する。
「まぁ、人間があのゴキブリのようにしつこい奴に勝てるはずもないし…当然の結果ね」
巻原という男がどうなろうが、知った事ではない。
表情にも表れているあの戸愚呂兄のしつこさと言えば、紅ですら関わりたくないものだ。
「紅が落ち着いてるなら蔵馬は大丈夫として…。おめーは大丈夫なのかよ?」
「平気。闇華石さえ抜ければ、身体はいたって正常なのよ」
毒気が残るわけでもないし、と答えれば、どこか安心したように息を吐き出す一行。
それならば、と御手洗が疑問に思っていたことを口にした。
「彼の手助けをしたりはしないんですか?」
「手助け?どうして?」
逆にそう問いかけられ、彼は思わず口を噤む。
紅はその質問自体が理解できない、とばかりに首を傾げた。
「彼が、手助けが要りそうな弱い男に見えるのかしら?」
そう言って紅はクスリと笑う。
その妖艶ささえ感じさせる笑みに、幽助以上に免疫のない御手洗はたちまち頬を染めた。
きっと、この状況を蔵馬が見ていれば眉を顰めただろう。
ぶんぶんと首を横に振る彼に、紅は満足げに頷く。
「見ていればわかるわ。手助けが必要か…今の行動が正しいのか、ね」
後者であると言う確信はあるけれど、こればかりははっきりと見せられねばわからないものなのかもしれない。
そうして、紅は彼らに集中するように視線ごと意識をそちらへと向ける。
それ以上の問いかけを拒む空気を纏った彼女に、それ以上質問を重ねる事もできず、彼らも彼女に倣った。
ローズウィップによって分断されたその断面から、戸愚呂の頭が生えている。
そんな、見る人によっては思わず口元を押さえるような状態のまま、彼は蔵馬に襲い掛かった。
蔵馬はそれに動じる事も無く、手元から霧状の何かを噴出させる。
それはやがて彼らの姿を覆いつくし、大きな雲の塊のようなものが出来上がった。
外からは中の様子を窺うことが出来ない。
ただ、戸愚呂の勝ち誇ったような声だけが届く事が、幽助たちの不安を煽った。
「くそっ!中では何が起こってるんだ!?紅ならわかってんだろ!中継し…」
その言葉は、不自然に途切れた。
紅の姿を見た彼は、その周囲に張られた結界の存在を否応無しに視界の中に捉えたのだ。
何故この場面で彼女が結界を張るのか、その意味がわからず、結果彼の言葉は尻切れ蜻蛉になったというわけだ。
「中継って言っても…もう終わってるわ」
紅がそう答えると同時に、飛影が何かに気付く。
声を上げる彼のそれに反応して、幽助もそちらを見た。
煙の中から出てきたのは無傷の蔵馬。
彼は煙から出てくるなり紅の姿を探し、それが結界の内にあることを悟ると僅かに安堵した。
「良かった。何も言わずに邪念樹を使ったから、幻覚物質にやられてないかと心配したんだが…」
「どれくらいの付き合いだと思ってるの。初撃で種を植え付けていたことくらいわかっていたわよ」
「いや、恐らく大丈夫だとは思ったんだが…妖狐は感覚器官が優れている分、色々な物質の影響を受けやすいから」
万が一と言う事もあるだろう?と問いかける彼に、紅は苦笑に似たそれを浮かべる。
先ほどまで闇華石の影響を受けていたから、尚更心配だったのだろう。
身体に残っていなければ正常であることに変わりは無いのだが…案じてくれるのは嬉しい事だ。
仕方が無いわね、と言いつつも、彼女は柔らかく笑う。
「それにしても…蔵馬、変わってないわね」
「そうか?」
「ええ。昔を思い出したわ」
そう言いながら、紅は自身の髪をクルリと指に巻きつける。
彼女の言っている『昔』と言うその時期は、恐らく彼自身が思い浮かべたものと同じだ。
ヒントとして彼女が触れる髪こそ、それを思い浮かべさせる最大の要因。
「私の髪を切り落としたが為に戸愚呂と同じように永遠に近い螺旋を巡る事になるなんて…憐れよね」
広い魔界の片隅で、今も尚螺旋に取り込まれている妖怪を知っている。
絳華石は、紅がその妖力をこめれば再生力を高める。
その再生率は彼女自身が好きに操作する事ができ、一瞬で完治させる事も出来れば、その逆も出来る。
何度目の敵襲だったかは覚えていないが、その妖怪は二人の率いる盗賊団の本拠地へと乗り込んできた。
そして、偶然に偶然が重なり、その妖怪は紅の髪に攻撃をかすめさせる事に成功したのだ。
それは、彼を破滅へと導く門を開いたも同然だった。
流水の如く静かに、けれども鋭く怒りを露にした盗賊頭、蔵馬。
彼は紅に最大限の妖力をこめた絳華石を望んだ。
まだその時は邪念樹の存在を知らなかった彼女は、その用途に疑問を抱きつつも手持ちのそれに妖力をこめる。
渡されたそれを、蔵馬はすでに用意していた邪念樹の種と共に妖怪の内部に埋め込んだ。
後は、戸愚呂が通った道と何ら変わらない。
絳華石に込められたその妖力が途切れる一瞬まで、あの妖怪は幻覚を見ながら延々に生きながらえるのだ。
挑む相手が悪かった、そう言ってしまえばそれまでだが、今となっては憐れみの念しか浮かばない。
あと数百年は尽きる事のないであろう絳華石内に巣食う妖気の存在を思い、紅は肩を竦めた。
少なくとも後200年は螺旋の中を巡ってもらう事になるが…自業自得と諦めてもらうしかない。
きっと理解できるようなまともな思考は、すでに失われているだろうけれど。
こんな過去の事を思い出すあたり、紅は「自分も大概余裕だな」と思った。
人間界の危機、と思えば、少しは焦る事ができるだろうか。
そう考えてみて、やはり無駄だと肩を竦める。
人間がどうなろうが、どうでも良いのだ。
自分の目の届く範囲、手を届かせたい範囲の人間さえ守ることが出来れば、それでいい。
そして、自分にはその人たちを守るだけの力がある。
彼らはそれを良しとはしないかもしれないけれど、そこまで考える筋合いもない。
「どうしたものかしらね…」
桑原を返す、と言う宣言通り、彼はこちら側に戻ってきた。
だが、それと同時に幽助を除く全員が平面妖怪「裏男」の中に食われてしまったのだ。
そんな状況でありながら、喚くでもなく焦るでもなく。
紅はその辺に浮いていた瓦礫に腰掛け、ついた肘の上に顎を乗せて動向を見守る。
「…紅…少しは焦ってみないか?」
「焦った所でどうなるものでもないでしょう」
「まぁ、確かに。…抜け出せるのか?」
「…裏男の腹を突き破れば、ね。でも、綺麗な事じゃないからやりたくないわ」
そんな彼女に蔵馬は思わず苦笑を浮かべた。
こう言う冷めている所も好きだけれど…この場面でも至って冷静な姿には「彼女らしい」と言う考えしか浮かばない。
しかし、焦ってどうなる問題でもないので、樹の言うように、仙水と幽助の遣り取りを見ているしかなかった。
07.02.26