悠久に馳せる想い
悠希が姿を消した事もよく分からないが、それよりも紅の様子だ。
未だに楽にはならない呼吸に、自然と緊張感が高まっていく。
「蔵馬、何がどうなってるんだよ…」
「天沼が紅に渡したのは闇華石と言って…紅の結界を抜けられる唯一の物質であり、彼女にとっては最大の毒でもある」
「あんかせき?」
鸚鵡返しのように繰り返す彼の脳内で、それが正しく変換されるにはまだ暫くの時間が掛かるらしい。
尋常ではない彼女の様子に、幽助や幻海、そして飛影以外のメンバーは動く事すら間々ならない状態だ。
何かをしなければ、と言う意思があるのは前者二人、後者の飛影は、これ以上を牽制するように天沼を睨んでいる。
一方、先ほどまでは子供らしい無邪気さを露にしていた天沼だが、今では蛇に睨まれた蛙の状態だ。
彼女の現状は自分が引き出したものであると言う事は明らか。
何をしてしまったのかが理解できない彼は、ただ身体を強張らせた。
「暁斗の方は、短くとも半時間は起きないよ」
「助かりました、幻海師範。紅を…お願いできますか?」
彼女の肩を抱きながらその手を握り、蔵馬はそう問いかける。
答えが否定的なものであるとは思わない。
気を抜けば声が震えてしまいそうだったのは、やはり彼女が大切だからだ。
しかし、彼女を抱いたままでは、天沼と対戦する事ができない。
もちろんだ、と返した幻海に、躊躇いつつも彼女を預ける。
「蔵馬…大丈夫か?」
即座にゲーム機の方に歩き出そうとした蔵馬に、幽助がそう問いかける。
集中力が物を言うゲームだという事は、すでに聞いていた。
だからこそ、今の彼は不安定なのでは、と思ったのだ。
だが―――
「大丈夫。倒す事の迷いも消えた。俺は勝つよ」
躊躇いは、相手が取り払ってくれた。
蔵馬は迷いのない目で天沼を一瞥する。
心が痛まないわけではない。
けれど、知らなかったとは言え彼も同罪だ。
「天沼くん…悪いけど、これ以上時間は取らせない」
「…ふ、ふん!そう言うのは、俺に勝ってから言いなよ。このゲーム、俺だって得意なんだからね」
「………このゲームで君が負ければ、君は死ぬ」
普段ならば躊躇いに表情を歪めたりするだろう。
しかし、今の蔵馬のそれは無に近かった。
彼を敗北に追い込むと言う事が、それ即ち彼の死に繋がるとしても―――それよりも、大切なものがある。
今この一瞬でさえ身体を蝕まれ続ける紅を横目に捉え、蔵馬は一度短く息を吐き出した。
そして、自身の言葉に「まさか」と言った風な表情を浮かべている天沼に仙水の考えを説明する。
蔵馬の憶測でしかないけれど、それは間違いないだろう。
仙水は、蔵馬がそのことに気付き、天沼を負かすことに対して躊躇いを生み出させるのが目的なのだから。
そんな筈はない、けれど、彼の言う事はどれ一つとっても間違ってはいない。
説明の言葉を紡がれれば紡がれるほど、天沼の心は平常からはかけ離れて行った。
そして、彼は最後にこう告げる。
「彼女が…紅がいつも通りだったなら、君を助ける事は出来た。俺も彼女もそのつもりだったんだ。だが―――」
濁した言葉の先は、彼が彼女へと向ける視線から察することが出来た。
自分の行動により彼女は指一本すらまともに動かせない状態になっている。
そして、彼女が居ないから、自分は迫り来る死から逃れる事ができない。
その事実は、天沼を大いに追い詰めた。
『ゲームスタートです!!先に数字のブロックが上まで積み上がった方が負けとなります』
無情なゲーム開始の電子音声が室内に響き渡る。
「まだ死にたくないよ…!」
そんな声が聞こえた。
目の前の恐怖に震える声は、痛みに染まる思考の中でも確かに耳に届いた。
瞼一つを動かすだけでも全身を痛みが走る。
針の筵に横たわる方がまだ痛みはマシなのでは、と思うほどのそれ。
しかし、ゆっくりと閉ざした瞼を押し上げた。
霞む視界に映りこんだのは、険しい表情を浮かべながら顔を俯かせてこちらに歩み寄ってくる蔵馬。
自分ですら、こんなにも怒りを露にした彼を見た事は、そう多くはない。
無言のままに彼の腕に抱き上げられた所で、今までは幻海に支えられていたのだと気づく。
反動での揺れにさえ痛みを感じ、紅は小さく呻いた。
その声に気付いたのか、蔵馬の眼差しが彼女へと落とされる。
そこで、漸く彼のそれと視線が絡んだ。
「紅…意識はあるんだな」
どこかほっとしたような彼に、返事を返したいと心が叫ぶ。
けれど、その声が音となって発せられる事はない。
それよりも、自分には告げたい…いや、告げなければならないことがある。
「…っ」
「…紅?」
唇を動かそうとしている事に気付いたのか、咎めるようなどこか強い声が名を呼ぶ。
しかし、それでも動かす事をやめない彼女に、彼は眉を寄せたまま耳を唇の傍へと寄せる。
「―――、―――…」
途切れながらもギリギリ届く程度の音量でそれを伝える。
断片しか紡ぎだす事は出来なかったが、彼はそれを理解してくれただろう。
より一層表情を険しくしつつも、じっと紅を見下ろす。
彼女の方が折れるつもりはないと悟ると、そっと息の塊を吐き出した。
そして、出来る限りその身体を揺らさないように、そちらへと歩く。
「蔵馬?」
どこに行くんだ、とでも言いたげな幽助の声が背中に掛けられる。
それに対して、彼は何も答える事無くゆっくりと一歩ずつ歩いた。
そして、そこに到着すると、時間をかけて地面へと膝を着く。
自身の身体もまた地面に近くなった所で、紅はその手を彼へと伸ばした。
「…痛みは数百倍になって伝わる。分かってるんだな?」
出来るならば、ここでやめて欲しい。
その視線に込められた思いに気付きながらも、紅はただ一度頷く。
それ以上は何を言っても無駄だと思ったのだろう。
蔵馬は、近づけられた紅の手を取ると、その指先に唇を寄せる。
「…ぁあっ!!」
それを口に含み、ギリッと歯を立てれば、搾り出すような声を発する。
彼女にその声を上げさせたのが自分だと思うと、やりきれない思いが胸にこみ上げた。
しかし、彼女の意思を無駄にするわけには行かない。
傷口から滲んだ血の量を増やすように、少しだけ指先の方へと絞る。
ポタリと赤い数珠のようなそれが彼女の指先から落ちた。
地に伏して動かない天沼の口元へと落ち、重力にしたがって赤い筋を作る。
そうして、それは彼の口内へと滑り込んだ。
「ここから先は、この子の運に任せよう。これ以上は許さない」
すでに傷跡は消え、名残の血だけが残るその指先を舐めると、蔵馬はそう告げる。
彼女自身もそれ以上を望むつもりはないのか、どこか力尽きたようにぐったりとその胸に凭れかかった。
その身体を抱いて立ち上がると、蔵馬は幽助らを振り返る。
「先を急ごう。一刻も早く、出雲を見つける必要がある」
「お、おう。…何をしたんだ?」
歩き出す蔵馬に続いた幽助が、天沼を見下ろして問いかける。
赤く濡れた唇は、拭われる事なくそのままだ。
彼女の血を飲ませたと言う事以外は何一つ分からない。
「絳華石を飲ませたんだ。絳華石は紅の血から生まれる―――だから、彼女の血はそれとほぼ同じ効果がある」
「なら、天沼は…」
「ただし、彼女の妖気が万全の状態に限るんだ。効力はかなり薄まっているから…後は、彼の運次第だ」
歩き出す二人の前を率先するように、御手洗は小走りで彼らを追い越す。
そして、追い越し際に見えた彼女の様子に心を痛めた。
「出雲は…僕達を、仲間だとは思っていない」
「…まぁ、当然だろうな。出雲が人間を仲間だと立てるなんて…それこそ、明日の天気は槍だ」
「あいつは、ただ『佐倉と言う妖怪から受け取るものがある』って…。それは、一体…?」
「…受け取るもの?」
何だ、それは。そんな視線が蔵馬へと投げかけられる。
沈黙しているものの、飛影から向けられるそれも似たような視線だ。
「…君達が関わるべき事じゃない。何も聞かないでくれ」
「そんなに危ない事なのか?」
「出雲が邪魔だと判断すれば…幽助、君だって命の保障はないんだ。あいつが本気に対抗できるのは彼女だけだ」
「こんな状態なのに?」
「…出雲は彼女にとって有毒である闇華石を持っている。だが、それは彼女に関してもいえることだ」
互いが、互いの存在が疎ましい。
例えるならばS極とS極のように、どうあっても寄り添う事無く反り返りあう存在だ。
紅にとって出雲が天敵だと言う事は、彼にとってもまた同じことだった。
07.01.24