悠久に馳せる想い
その部屋に入るなり、紅と暁斗は自身の身体に何かが這う感覚を味わう。
結界と付き合うようになって数百年。
こうして身体に害のある空気が這うことにも慣れている紅は別としても、暁斗には不愉快らしい。
その耳の毛がザワリと逆立った頃、漸く彼の結界能力が芽吹く。
すでに身体の周囲を一周させていた紅に遅れること数秒。
彼もまた、無事に自身を結界の中に保護することに成功した。
「…出来た」
この所満足に修行していなかったからだろう。
どこか疲れた様子の暁斗は、それでも嬉しそうに尾を振って紅の元へと駆け寄った。
よくやった、と言う言葉は無かったが、代わりにその頭が撫でられる。
それだけで十分だった。
「暁斗も無事にテリトリーを撥ね退けられたんだな」
ゲームの順番が決まった頃、蔵馬は紅と暁斗の元へと歩いてきた。
すでに壁にもたれて傍観の姿勢を取っている二人は、各々の表情を彼に向ける。
そんな彼の言葉に喜んだのは、他でもない暁斗だ。
どこまでもご機嫌に尾を振る彼に、紅と蔵馬が顔を見合わせて笑う。
こんな時だけれど―――いや、こんな時だからこそ、こうして笑いあえる事が好ましい。
「…大丈夫か?」
「え?」
「あまり調子が良くなさそうだけど…結界に不備でも?」
言葉数の少ない彼女に、テリトリーが彼女に影響していると思ったのだろう。
蔵馬は体温を確認するようにその頬に手を当てて、問いかけた。
彼の言葉に紅は即座にそれを理解する事ができなかったが、やがて口を開く。
「あの子なんだけど…」
「天沼がどうかしたのか?」
「………いいえ。何でもない。そんな事…ある筈がないわ」
何かを言おうと口を開き、けれどもそれを噤んでしまう。
まるで自己完結してしまうようにそう言って口を閉ざしてしまった彼女に、蔵馬は天沼へと視線を向けた。
一人目の対戦相手である御手洗がゲーム機の前に立ち、その彼に向けて野次を飛ばす天沼。
その二人を交互に見るが、やはり自分には何も感じない。
「何かあれば、すぐに言うように」
「…ええ。わかってる」
大丈夫よ、と微笑んだ彼女に、彼は漸くその警戒を解いた。
と言っても完全に無防備になってしまうわけではないが。
そうしている間に御手洗が勝利を収め、次なる幻海へとバトンが渡る。
彼女も難なく勝利し、次いで柳沢も同じく事なきを得る。
そうして、漸く天沼がその重い腰を持ち上げた。
ゲーム機の前に立った彼の対戦相手は海藤。
クイズは得意だと言う彼に、誰もが一瞬は安堵した。
次々に彼が正解を重ねていく中、紅は最後尾からまるで睨むように天沼の背中を見る。
ある筈がない、それは自分の思い込みなのだろうか。
一向に彼への嫌悪感が消えない事が、紅にそう思わせるきっかけとなり始めていた。
「母さん?何か表情が恐いけど…大丈夫?」
クイッと着衣の裾を引かれたかと思えば、そんな控えめな声が掛けられた。
我に返って彼を見下ろせば、どこか不安げな眼差しとそれが絡む。
心配させたくないのに、させてしまったらしい。
自身の失敗に苦笑しつつ、彼女は頷いた。
これだけ自分が気にしてしまっていては、気にしないで、と言っても無駄だろう。
あえて何も言う事無く、彼女は再び天沼らへと視線を向ける。
丁度、5問目が終わった所だった。
一見法則性のないクイズの中にも、それは確かに存在していたらしい。
それを見抜いた天沼にとって、海藤は敵ではなかった。
出題開始直後…それこそ、何問目という問題すら聞かない状態で答える彼に、初めてこちら側に黒星が付く。
「蔵馬、このゲーム…厄介ね」
敗北を帰した海藤自身に何の影響もない事を悟ると同時に、蔵馬の表情が翳る。
彼と共に歩めるだけの知能を持つ紅だ。
彼女が彼と同じ答えに行きつかないはずはない。
蔵馬は彼女の言葉に、その表情を変えずに頷いた。
「さて、と!次は誰が出るの?」
屈託のない笑顔でそう問いかけてくる天沼に、紅は眉を寄せた。
彼は、これからいや、すでに歩み始めている運命に気付いていない。
「…本気?」
一歩進み出た蔵馬に、紅はそう問いかける。
昔の彼であったならば、こんな事を尋ねたりはしなかった。
しかし、今の彼には…このゲームで天沼を負かす事は、残酷以外の何者でもない。
「………それしか、方法がない」
「あなたがそう決めたならば、止めないわ。…後の事は任せて」
「…ありがとう、紅」
力なく微笑んでそう言うと、彼は天沼の方へと歩いていった。
そんな紅と蔵馬の遣り取りを見ていた彼は、あ、と何かを思い出したような声を上げる。
「あんたが蔵馬って人?」
「そうだが…」
「じゃあ、あの人が紅なんだね」
納得したように笑う彼に、蔵馬は疑問を抱く。
自身の第六感が、何かを告げていた。
その正体を理解する前に、天沼はゴソゴソとポケットを探り出す。
そして目当てのものを指先に感じた所で、彼はゲーム機から離れて足早に歩き出した。
「はい」
何かを握った状態で、彼はそう言って紅に拳を差し出す。
受け取るなと頭の片隅が警鐘を鳴らす中、彼女はその屈託のない笑顔に半ば反射的に手を差し出してしまう。
いつの間にか、己の息子とそう年の変わらない頃の子供の笑顔に弱くなっていた。
「紅!!受け取るな!!」
握った指先が解かれ、それが彼の手を離れる。
そして紅の掌に落ちるまでの間に見えたそれに、蔵馬は声を荒らげた。
「餞別、だってさ」
彼の言葉が無情に響き渡るとほぼ同時に、それが紅の掌に落ちる。
その闇を押し固めたような黒いそれは皮膚に触れた瞬間、それはまるで吸い込まれるように体内へと入る。
同時に、そこから全身に向けて、刃物を刺すような痛みが走った。
「っあああああああぁっ!!!」
声を殺すことすら出来ないような痛みが全身を貫く。
焦る声も怒る声も、何も聞こえなかった。
それを吸い込んだ側の手首を握り、身体を折る。
平衡感覚など初めの一瞬から奪われていて、傾きだした身体は重力に従っていった。
「紅っ!!!」
声を荒らげると同時に駆け出していた蔵馬は、彼女の身体が床に転がる前に受け止める。
自分の声も届いていない彼女の様子に、自身の甘さを悔やんだ。
彼女が先ほど途切れさせた言葉の続きを、無理やりにでも聞きだしていればよかった。
「蔵馬!?紅はどうしたんだよ!」
「紅は…っ!幽助、暁斗を止めてくれ!」
強く肩を抱く事しか出来ず、蔵馬は幽助に向けて顔を上げた。
そこで、視界の端に映りこんだ光景に思わずそう告げる。
その焦りが伝わったのか、幽助は持ち前の運動能力で自分の傍らを抜けようとしていた暁斗の腕を辛うじて掴んだ。
「放せ!!!コイツを殺せばテリトリーは解ける!!」
「殺すって…落ち着け!殺しても解けるかどうかは分からないだろうが!」
興奮を表すように、暁斗の尻尾の毛は3倍ほどに膨れ上がっている。
全力で抑えなければ、幽助とて跳ね飛ばされそうなほどの力。
「く、蔵馬!押さえきれね…」
『失礼します!』
幽助の腕が離れそうになったところで、肩にトンと軽い衝撃を感じた。
次の瞬間には、何かが暁斗の首の後ろを弾くのが見える。
途端に力の抜けた身体を慌てて受け止め、幽助はふぅとしりもちをついた。
「幽助、暁斗をこっちに渡しな」
「どうすんだよ?」
「今目覚めれば、また同じ事になる。暫くは術で眠っておいて貰おう」
『師範、助かります』
暁斗の傍らに居た悠希がそう頭を下げる。
そして、彼が預けられるのを見届ける事無く紅の元へと駆けていった。
『蔵馬様、佐倉様は…』
「闇華石だ。まさか、出雲がこれを人間に持たせるなんて…くそっ!」
『出雲の人間嫌いは我々の比ではありません。自身の誇りとも言えるこれを渡す筈がない。
そう考えるのも、無理はないことです。自身を責めていても始まりません』
「…そうだな。まずは紅の中から闇華石を取り出さないことには…出来るか?」
『完全には無理ですが、進行を遅らせる事は出来ましょう』
そう答えると、悠希は紅の胸元へと降り立った。
そして、目を閉じて彼女の内側へと溶け込むように消える。
その数秒後、途切れ途切れになっていた紅の呼吸が僅かにではあるが和らいでいった。
07.01.23