悠久に馳せる想い
がくんと膝が折れた。
そのまま地面へと座り込むと、紅は深く息を吸い込もうとする。
しかし、口を開くだけで空気は一向に肺に送られてはこない。
呼吸困難に近い状況になりつつ、頬に汗を伝わせた。
「母……!……さん!!」
暁斗の声が遠くに聞こえ、紅は霞む視界で地面を見下ろした。
これは、彼に対する恐怖からではない。
徐々に呼吸を取り戻し、浅くではあるが肺に空気を送り込む事に成功する。
小刻みに上下する胸元を見ながら、暁斗は痛む身体を無視して必死に彼女の名前を呼んでいた。
「暁斗!」
不意に、背後から聞こえてきた声に暁斗の耳が反応する。
紅の肩に添える手をそのままに、彼は振り向いた視界で父の存在を見とめた。
「父さん、母さんが…!」
「…っ遅かったか…」
すぐさま駆け寄ってきた彼は、暁斗の腕から紅を受け取る。
自分がどういう状況にあるかを把握できていないのか、彼女は虚ろな眼差しを下へと落としていた。
そんな彼女の様子に舌を打ち、その細い身体を抱き上げる。
「紅、落ち着いて。ちゃんと、息を吸い込んで」
耳元で囁くように何度も彼女の名前を呼ぶ。
そうしているうちに、紅の目に光が戻ってきた。
二度ほど瞬いた後、彼女はそっと瞼を伏せる。
そして、ぐったりした様子で蔵馬の胸元に凭れた。
「大丈夫か?」
「…ええ。ありが…とう。仙水のことは…どうなったの?」
「それは後だ。今は、無理はしない方がいい」
「…そういう訳にもいかないでしょう…。教えて」
声に徐々に強さが戻ってきて、漸くその呼吸も正常に戻ってくる。
紅は伏せていた瞼を開き、その目に蔵馬を映した。
自身を案じるその目に映る、どこか疲れた様子の自分を見て、心中で苦笑する。
「…桑原くんが連れて行かれた。どうやら、彼は次元を切る能力を持つ人間を探していたらしい」
「………それを、彼が持っているのね…。となると、穴は間もなく完成する」
「そう見て、間違いは無いだろう」
「…出雲は仙水と手を組んでいるわ。あの男は利用しているだけだと言ったけど…それはお互い様ね」
今度はその表情にはっきりと苦笑を浮かべ、蔵馬の腕から降りる。
自身の足で立つと、彼女は真っ直ぐに彼を見上げた。
「仙水は、出雲を使って私の能力を制限するつもりね。それが出来る事を知っているのは…あの男が教えたから」
「…なら、紅は洞窟には行かない方が―――」
「行くわ」
彼の声を遮るようにして紅ははっきりとそう答える。
すでに先ほどまでの苦しんだ痕跡など残さず、彼女は真っ直ぐに地に立つ。
凛としたその表情は、何かを決意しているようにも見えた。
「悠希」
「ここに」
名を呼べば、即座に返事が返ってくる。
それと同時に、紅の前に中型犬ほどの悠希が姿を見せた。
紅が佐倉の姿を取っているからこその大きさなのだろう。
「あの男を追えた?」
「申し訳ありませんが…去った方角ならば、分かります」
「それだけでも十分だわ。どっち?」
そう問いかければ、悠希は右の方へと顔を向けて「こちらです」と答える。
その方角を見ても、視界に入ってくるのは無機質に並んだ家やビルだけだ。
「穴の方角か…」
「何者かによって封印が解かれたなら、私はまたあの男を封じなければならない」
「でも、それは今でなくとも…」
「態々一番妖気が一番衰えている時に人間界にやってきたあの男を、今封じずにいつ封じると言うの?」
どこか冷たい言葉に、蔵馬は紅の心中の苛立ちを悟った。
彼女は、焦っている。
「母さん、俺も無茶しない方がいいと思う…」
クイッと紅の着衣の裾を引き、暁斗が控えめに声を上げた。
そんな彼に合わせるように地面に膝を着き、彼を抱きしめる。
いくらか成長したとは言え、その小さな身体はすっぽりと腕の中に納まってしまう。
「失わない為には、今動かないと…手遅れになってしまう前に」
「紅…」
「私は安全な場所に残って、あなたやこの子だけを危険な目に?そんな事…出来る筈がないじゃない…」
この二人を失ったら、自分は生きていられない。
大切で、大切で…彼らが居るからこそ、紅と言う自分が在る。
嘗て自身の仲間を失った時に支えてくれたのは、蔵馬だった。
その仲間とは愛情の土俵が違うけれど、自分にとっては彼ら以上になくてはならない存在だ。
――今度こそ、お前の大事なもんを奪ってやるから…覚悟してな。
去り際に残した出雲の言葉が脳裏に蘇る。
紅はぎゅっと暁斗を抱きしめ、目を閉じた。
「…わかったよ」
どのくらいの時間、そうしていたか分からない。
小さく息を吐き出すのが聞こえ、その後に続いた了承の声に、紅はゆっくりと顔を上げた。
戸惑いながらも、じっと動かないで居てくれた暁斗の頭を撫でてから、彼へと向き直る。
「無理だと判断したら、途中でも引き返すんだ」
「…ええ」
「それから…もう一つ。俺達は…いや、暁斗は、あの頃とは違う。あんな大怪我は二度としないし、させないよ」
安心させるように彼女の頬を撫で、小さく笑みを作る。
そんな彼の行動に、紅はそっと頷いた。
「佐倉様…悠希もお連れください。お役に立てるかどうかは分かりませんが…」
「…もちろん、一緒に来て貰うわ、悠希。あなたを置いていくはずがないでしょう?」
見上げる悠希の頭を撫で、紅は確かにそう答える。
彼女の答えに悠希は自身を奮い立たせるように、一度身体を震わせた。
「そうと決まれば…皆と合流しよう。幽助は…自分で何とかするだろう」
「幽助がどうかしたの?」
「自転車で車を追って走っていってしまったんだ。どこまで追っているのかは分からないけど…」
彼の事だから…と語尾を濁す。
紅からすれば理解できない所に全力を注ぐのが浦飯幽助と言う人だ。
蔵馬の言わんとする事を理解し、紅は苦笑を浮かべた。
「相変わらず凄いわね、色々な意味で」
「…ただの馬鹿じゃん…」
車を自転車で追いかけるなんてさ、と呟く暁斗。
彼の言葉は言い得て妙だと思った。
「思ったより時間が過ぎたな…きっと、心配してるよ」
「心配?」
「あぁ、コエンマなんかは特にね。出雲を知っているだけに、気が気じゃなさそうだった」
それを宥めて追ってきたのが蔵馬、と言う事らしい。
霊界の者であるにも拘らず、今も関係を続けていけるのは、コエンマのそう言う所が好ましいのだろう。
そんな結論に達して、紅は知らず知らずのうちに笑みを浮かべた。
「…コエンマに心配されて、微笑むなんて…少し妬けるな」
「あら、珍しいわね。誰よりも多く笑みを見ているあなたのセリフとは思えないけど…」
「紅の笑みは俺だけのものであって欲しいからね」
「はいはい。冗談はこれくらいにして…早く戻りましょう」
そう言って悠希を従え、先に歩き出す紅。
遅れること数歩分、彼女の背中に続きながら、暁斗は隣の蔵馬を見上げた。
「冗談じゃなくて…全部本気だよね」
「当然、だな。コエンマでも、紅の笑顔を向ける相手にはなってほしくない」
「…笑顔を向けるななんて、父さんも無理難題を言うなぁ」
絶対無理だよ、と肩を竦める。
そんな彼を横目に、蔵馬も少し大人気なかっただろうかと思った。
でも、コエンマに対して少しでも嫉妬心を抱いたのは事実なのだ。
「紅の事になると、どうしようもないな…」
幽助たちと仲良くやってくれればいいと思う。
それはそれで嬉しいことなのに、自分のどこかがそれを納得していないらしい。
自分勝手だな、とは思うけれど、生憎直そうとは思わない。
数百年培われたその性格がそう簡単に変わるわけは無いのだ。
「母さんも苦労するね…」
小さく呟かれた暁斗の声は、聞こえなかった事にした。
07.01.01