悠久に馳せる想い
「師範、説明の前に桑原くんを連れて来た方がいいんじゃないですか?」
「あぁ、そうだね。城戸、あいつを連れてきてくれないか?」
今しも説明を始めてしまいそうな幻海に、紅がそう進言する。
彼女の言葉に頷くと、幻海は城戸の方を向いてそう尋ねた。
二つ返事でそれを了承し、彼は階段のひとつから階下へと降りていく。
程なくして戻ってきた彼の後には、下着姿で不貞腐れた様子の桑原が居た。
目に毒…と言うつもりは無いが、あまり見たいものでもないのでさり気無く視線を逸らしておく。
その仕草は自然だったのか、気付いたのは蔵馬だけだったようだ。
彼は彼女の行動にふっと笑みを作り、その隣に移動した。
否応無しに視界に入り込んでいた桑原の代わりに、彼の制服が映る。
「ありがとう」
お礼を言うのも変かとは思ったが、とりあえず言っておく。
どういたしまして、と微笑が返ってきただけで、彼女は満足そうだった。
幻海の説明は単純なものではなかった。
ここ一ヶ月で、城戸や柳沢、そして海藤らと同じように、特殊な能力に目覚める人間が現れているらしい。
その原因は、先の武術会に深い関わりを持っていた左京の計画していた『界境トンネル』。
簡単に言えば、人間界と魔界とを繋いでしまう穴だ。
左京の死によって、そのトンネルは未開通のままに終わるはずだった。
しかし、彼の意思を受け継いでトンネルの拡大を図っている者が居る―――彼女の話の大筋はこんな感じである。
粗方話し終えた所で、コエンマからの通信が入る。
彼の話によると、その穴の段階は四段階のうちすでにその二段階目までを通過してしまったと言うものだった。
その二日後、一行はその穴のある蟲寄市を探る事となる。
すでに夜も更けた午前3時頃。
丑三つ時すら過ぎた街中に人の気配など無い。
点々と道を照らす街灯だけが、寂しく光を纏っていた。
「…紅、一つ聞いておきたい」
今まで静寂と共に歩いていた蔵馬と紅。
それを破ったのは、彼の方だった。
突然と言えば突然の言葉に、紅は闇を見つめていた視線を彼へと向ける。
先程街灯の下を通過してしまった所為か、暗さで彼の表情が窺えない。
「穴が開けば…帰るのか?」
「…暁斗はそれを薦めるでしょうね」
人間界はスリルが無い、と言うのが口癖になりそうなくらいだ。
魔界への穴が開くとすれば、一番に「帰ろう」と言い出すのは恐らく彼だろう。
その辺は飛影といい勝負だと言える。
「あぁ、あいつはそうだろうな…」
その様子をありありと思い浮かべる事が出来たのか、蔵馬はクスクスと笑う。
若干その場の空気が和むが、その笑いが途絶えれば何とも言えない空気が支配する。
「紅は?」
「…帰らないわ。蔵馬だって、こちらに留まるんでしょう?」
「ああ。母さんを置いていけないな…妖怪が溢れることになるなら、尚更」
「そう言うと思ったわ」
今更、彼女に対して醜い嫉妬心を抱いたりはしない。
あぁやっぱり、と言う感情がこみ上げてきて、場違いにも笑みが零れる。
こうなってしまえば一蓮托生。
彼が守りたいというならば、自分も全力でそれを守ってみせる。
改めてそう心に誓いを立てたところで、紅はふとその眼差しに鋭気を宿した。
「―――気付いてる?」
「…あぁ」
前方に視線を向けたまま、意識は自身の背後へと。
十数メートルの距離をあけて自分達についてくる者の気配に、紅はかなり前から気付いていた。
「霊界の者ね。面倒だわ…」
用件など聞かずとも分かる。
だが、このまま付いてこられるのも鬱陶しい事この上ない。
恐らく蔵馬と分かれて紅が一人になるのを待っているのだろうが、生憎今日はあり得ない事だ。
「蔵馬の家まで付いてこられるわ」
手紙の呼び出しの時間がかなり遅かったため、紅は彼の家に泊まっていた。
紅はすでに蔵馬の母への紹介も済んでいて、今までに何度か泊まらせてもらっている。
因みに、紅の両親はすでに他界していて祖母の家に世話になっている…という設定だ。
彼女も礼儀正しい紅を気に入っていて、娘のように受け入れられているのだ。
母親、と言う物を知らない紅にとっては未知の世界だが、彼女自身も蔵馬の志保利を気に入っている。
慣れないながらも試行錯誤しながら彼女と触れ合う紅は、蔵馬から見ていてとても微笑ましいものだった。
「うーん…それも厄介だな」
「…はぁ…。話をつけるわ」
どの道、無視を決め込むか、覚悟を決めて話を聞くかしか選択肢は無い。
後者を選んだ紅は、溜め息と共に足を止め、振り向いた。
「話があるなら手短にしてもらいましょうか」
明らかに蔵馬に向けたそれではない。
追跡者はビクリと肩を揺らし、やがて覚悟したように闇の中から一歩踏み出した。
と、その一歩と共にその場に赤い結界が張られる。
「紅…いや、佐倉。妖怪の貴様に頼みごとなど癪だが、エンマ大王からの命令だ」
「穴に新たな結界を、でしょう。それくらい分かっているわ」
隣に立つ蔵馬ですら、その冷たい空気に背筋を逆立たせる。
そもそも、霊界を毛嫌いしている彼女と連絡を取る事のできるコエンマが異例なのだ。
霊界、と言うだけでも彼女の憎悪の対象になるのが普通である。
「より強力な結界を張ることの出来る者を連れる事…それが、私に課せられた使命だ」
「他を当たりなさい。霊界の為にこの能力を使うつもりは無い。17年前にもそう言った筈だ」
「貴様は人間界が妖怪に支配されても構わんと言うのか!?」
頑なとも言える紅の態度に、霊界の使者の苛立ちが頂点に達する。
声を荒らげる彼に、紅は結界を張って正解だったと心中で呟く。
そして、妖艶でそれでいて冷たい笑みを浮かべ、その赤い唇を開いた。
「人間界など、私の知ったことではないわ」
ザワリと、彼女の妖気が揺れる。
瞬時に高まったそれが彼女の姿を佐倉へと戻した。
闇夜に輝く金色の髪、それと同色の鋭利な眼。
鋭い眼光に、使者は言葉を失い身体を震わせた。
武者震いではない、畏怖によるそれ。
絶対的な支配に、彼は全身から汗が噴出すのを肌で感じた。
「私に干渉するな。目を瞑るのは後にも先にもこれ一度」
カツンカツンと足音が響く。
ゆっくりと、恐怖を煽るように距離を詰めた彼女は、男の前に手を出した。
それだけで目に見えて肩を揺らす彼に、嘲笑を浮かべて指を合わせる。
「この恐怖を覚えておきなさい―――次は無い」
そんな声と共に、パチンと指を鳴らす。
同時に、男の身体が冷たい地面に崩れ落ちた。
静かに声もなく地面に伏す彼の意識はすでに深みに沈んでいる。
それを見届けると、紅はくるりと踵を返した。
一歩二歩三歩…蔵馬の隣へと戻る過程で、その姿は紅へと変化する。
「お待たせ」
「彼は?」
「記憶を適当に弄ったわ。私とあなたの事は全て忘れたからもう大丈夫」
そう答え、紅はクスクスと笑う。
その笑みはまだどこか冷たいものだった。
「まぁ、記憶が戻れば…彼の先に在るのは『死』ね」
「…これはこれは…随分と物騒だな」
「危ない橋を渡るような自虐心は持ち合わせていないもの」
当然よ、と答えると、紅は彼の腕を取って歩き出した。
蔵馬は半ば彼女に引かれるようにして足を進めながら思う。
「(この霊界嫌いは俺の所為でもある、か…)」
自惚れるつもりは無いが、事実なのだから仕方が無い。
特に、それを指示したエンマ大王に対しての憎悪と言ったら、その深さなど計り知れないほどだ。
息子であるコエンマが彼女と付き合えていることすら疑問になるほどに。
「…それにしても…今日は徹夜だわ」
「くれぐれも目の下にクマなんて飼わないように。母さんが心配するよ」
「ご安心を。そんなに柔じゃないわ」
腕を放す代わりに彼の手に自身のそれを重ねて握る。
どこか高校生らしい行動に、蔵馬はクスクスと笑ってそれを握り返した。
そんな彼に微笑を返し、紅はふと思い出したようにもう片方の手を持ち上げる。
彼女がパチンと指を鳴らせば、先程まで張られていた結界が弾けた。
それを見届ける事無く、二人は闇に同化するようにその場から立ち去る。
06.10.25