悠久に馳せる想い
飲み物を用意すると、その役を買って出たのは手持ち無沙汰になっていたぼたんだ。
彼女は部屋の端に置かれた冷蔵庫の前から桑原に声を掛ける。
「桑原くん、オレンジジュースでいい?」
彼女の言葉に桑原は「ああ」と答える。
そして「ついでに…」と事細かくガラスの色まで注文をつける。
「注文が多いやね~」
ぼたんが彼にそう苦笑を返した、まさにその時だ。
桑原の身体がドクンと脈打ち、ガタイの良いそれからゆらりと何かが立ち上る。
傍らに椅子を置いて座っていた蔵馬も、ガタンとそれを動かして立ち上がった。
紅も驚いたように彼を見ていたが、蔵馬のように過剰に反応する事はない。
「はい、二人目」
海藤の声に誘われるように、桑原の魂が肉体から弾き出される。
一直線に海藤の手の中に納まったそれに、一同は驚愕の色を隠せなかった。
「何故だ!?」
「桑原くん「あつい」って言ってないじゃないか!!」
「ぼたん!」
紅が海藤を指差して声を上げるぼたんのそれを途中で遮ろうとするも、その言葉はすんなりと彼女の唇から零れ落ちた。
あ、と気付くも、時すでに遅し。
ぼたんの魂も飛影、桑原同様に肉体を飛び出した。
「聞かなかったから言わなかったけど、俺のテリトリーのタブーは厳しいよ」
彼は三つの魂を手中に収めつつ、静かにそう語る。
定められた禁句は言葉と言う一括りではなく、それぞれの音を続けて読み上げてはならないと言う事らしい。
つまり、『あつい』はあついという単語を指すのではなく、『あ』『つ』『い』の三つをこの並びで口にしてはならないのだ。
「魂ってさー。きれいだよね~」
手の中で淀みなく揺らめく魂を見下ろし、海藤はそう呟いた。
椅子に落ち着く事すら忘れている蔵馬を横目に、彼は狂言とも取れる発言を口にする。
「少しだけひっかいてみようか?……とか考えてみたくなるよね。一体どうなるか」
ニヤリと挑発するように口角を持ち上げる。
その様子に紅はそっと目を細めた。
太股の上で絡めていた指を曲げれば、まるで獲物を求めるかのように指が鳴る。
それが彼女の苛立ちを示しているようだった。
「やってみろ。それは俺のタブーだと言っておく」
蔵馬は冷静な表情で椅子に腰掛ける。
いや、一見すれば冷静なその内側では、冷たい炎のような彼の感情が渦巻いていた。
「もしお前がそんなマネをすれば、いかなる手段を用いてでもお前を殺す」
その冷たい眼差しに、紅は何かがゾクリと背筋を這うような感覚を与えられた。
例えるなら歓喜。
佐倉としての細胞が、蔵馬の中に垣間見た妖狐蔵馬を思い出したかのようだった。
「それにしても…面白い能力ね、これ」
後から魂を抜かれた二人にも飛影同様に絳華石を持たせ、紅は呟いた。
肉体にも魂にも傷一つつけず、ただその結合のみを解く。
箱の中から物を取り出すようなその能力に紅は感心していた。
それと同時に、彼女の中で好奇心が首を擡げる。
「…私の結界と、どちらが強いのかしら?」
クスリと口角を持ち上げる。
その妖艶とも取れる笑みを見て、蔵馬は彼女の考えに気付いた。
「紅!」
桑原やぼたんの魂が取られた時とは、明らかにその焦りの度合いが違う。
それを紡がせないようにと口を塞ぐべく伸ばされた手を逃れ、紅は安心させるように微笑んだ。
そして、蔵馬から海藤へと視線を動かし、唇を開く。
初めは「あ」。
それに続いて「つ」。
そして最後に「い」と彼女はゆっくりと間を持たせて紡ぐ。
どくんと脈打つ身体に、紅は密かに笑みを浮かべた。
僅かに傾いた紅の肩に蔵馬の手が添えられる。
名前を呼ぶ彼の声を聞きながら、紅は冷静に自分の身体の変化を見守っていた。
だが、変化は初めの不整脈とも取れるそれのみ。
「なんだ、結局はこんなものなのね」
彼女の呟く声に反応するように胸元の絳華石の赤が増した。
それが帯のように彼女の全身を走り、まるで空に溶け込むようにパンと消える。
変化が終わると、紅は自分の手を見下ろして握ったり開いたりと動かしてみた。
だが、身体に異常は無い。
「何とも無いのか?」
「ええ。まぁ、この程度の力に負けるとは思ってなかったけれど」
全身を上から下まで視線をめぐらせる蔵馬に苦笑しつつ答える紅。
一か八かの賭けをしたわけではなく、彼女は確信していた。
自分を守る結界が、彼のテリトリーの能力に劣る事がないと言う事を。
「残念ね?こう言う例外があることも覚えておいた方がいいわよ」
海藤のほうを見て、紅はクスクスと笑う。
優位に立つ者の笑みに、彼は何故か冷たい汗が背筋を伝うのを感じた。
蛇に睨まれた蛙。
はっきり綺麗と断言できるはずの笑みを向けられているはずなのに、感じたのはそんな感覚だった。
「あなたのルールは私には効かない。恐らく、この場であなたに危害を加えることも出来るでしょうね」
その後ろの彼にも、と紅は柳沢を一瞥した。
「力に溺れるものほど愚かなものはない。自分の能力の限界は知っておいて損はしないわよ」
そう言うと紅は先程まで座っていた椅子に腰掛ける。
彼女の行動を見届け、蔵馬も大人しく彼女に倣った。
その表情に安堵の色が浮かんでいたのは気のせいではない。
「…雪耶は…俺をどうにかして三人の魂を取り戻すつもりは無いのか?」
汗を拭い、海藤は果敢にもそう問いかけた。
それもそうだ、と彼女が思いなおしてしまえば、自分の命すらも危険だと言うのに。
だが、彼の言葉に紅は肩を竦めるだけだった。
「その役目は蔵馬に任せるわ。この人があなたに負けるはずはないもの」
それだけを聞けば立派な惚気なのだが、何故かそう感じない。
確信と、絶対的な信頼。
ね、と首を傾げた紅に、蔵馬は思わず苦笑を浮かべた。
どうやら、このくすぐったくなる様な全幅の信頼を裏切るわけには行かないようだ。
「随分信頼してるんだな。もう、恋人って言うよりも…もっと違う関係みたいだ」
「勘は悪くないわ。あの人から全て聞いているのかと思ったけど」
そうでもないのね、と紅はそう言った。
彼女の指す『あの人』が誰なのかを、蔵馬は知らない。
だが、少しずつ見えてきているその人物は、恐らく紅が脳裏に浮かべている人物と同じだろう。
「さて、と。時間も勿体無いし…さっさと片付けてね、蔵馬」
他力本願とも取れる言葉に、彼は「はいはい」と肩を竦めた。
場違いに甘い空気を出すなと言いたいところだが、言ってどうなるものでもない。
逆に独り身の寂しさを自分で認めてしまうようで、嫌だ。
学校では、昼食時に蔵馬が紅を誘いに行き、そして放課後は共に下校する程度の付き合い。
彼がサボっている時には殆ど紅が一緒なのだが、そんな事を海藤が知る由も無い。
淡白な付き合い方だと思っていたが…どうやら、それは大きな間違いらしい。
「…性格が違うな、南野」
「まぁ、学校での俺が全てじゃないからな」
海藤の言葉の真意を悟ったのか、蔵馬はそう言って答える。
そして、彼に向き直った。
真正面から視線を合わせた蔵馬の表情に先程までの甘さなどはない。
ただ真剣で、冷たい。
彼は海藤に「禁句」を変えることは出来ないのかと問うた。
出来る、と言う彼の返事を聞いた上で、蔵馬はこう続ける。
「もし俺に「禁句」を決めさせてもらえば、45分以内で君に「禁句」を言わせてみせると断言する」
頭脳戦に挑む時の蔵馬の横顔が好きなのだと。
場違いと言われようが、紅はそれを自覚して表情を緩めた。
時計は間もなく1時を刻もうとしている。
06.10.07