悠久に馳せる想い

「ここにおったか」

ザァッと吹いた風が髪を遊んでいく。
それを押さえ込んだところで、背後から声が掛かった。
いつからその場に居たのかは知らない。
それほどに集中していたんだと思うと、自分の無用心さに呆れた。

「ホテルの屋上は封鎖されていただろうに…」
「鍵なんて私にとってはあってないようなものよ」

屋上の真ん中に立ち、空を見上げる紅。
彼女の亜麻色の髪が自由に風に乗っているのを眺めながら、コエンマは軽く溜め息を吐き出した。
高いところが苦手であるにも拘らず、何かを考える時には空を仰ぎ見られる場所を求める彼女。
矛盾しているようにも思えるが、何故か選ぶのはそれなりに高い場所である事が多かった。

「暁斗が探していたぞ」
「あら、大変ね。悠希」
「承知しました」

紅の声に、足元でお座りのように腰を下ろしていた悠希が頷く。
それだけで指示が伝わるのだから、二人の繋がりは深い。
トトトッと駆けて行く悠希は、やがて屋上への唯一の扉から出て行った。
それを見送る事もなく青空を仰ぐ紅と、そして悠希の姿が見えなくなるまで追ったコエンマ。
対する行動を取る二人が、この空間に居た。

「…本気なのか?」
「冗談は嫌いなの」

短い回答の示すところは肯定。
一度もあわせることのなかった視線をあわせ、彼女は口元に笑みを浮かべた。
その笑顔が、あの日霊界に閉じ込められた時の最後の笑顔と重なる。
彼女が本気なのだと、否が応でも感じさせられるものだった。

「言い出したら聞かないのは今も昔も変わらん、か」

呆れたようにそう呟く声は、もちろん彼女にも届いていた。
それに苦笑を返す辺り、彼女にも自覚はあるのだろう。

「何も今すぐに決めることもなかろう。午後には迎えの船も来る。帰ってからゆっくりと…」
「酷な事を言うわね、コエンマ。主のないあの屋敷に帰れと言うの?」

クスリと笑う彼女に誘われたかのように、風が二人の間を通り抜けていく。
彼女の言葉にコエンマは驚いたように目を見開いた。

「紅…お前は…」
「自分が思っている以上に師範の事が好きだったみたい」

彼女はくるりと背中を向けるようにして、屋上を一歩ずつ進む。
かなり大きなホテルだから、屋上も広い。
真ん中から端へと歩き出す彼女に、コエンマが少しばかり焦った声で彼女の名前を呼んだ。

「…紅」
「大会の最中にはこんなに思わなかったんだけど…ね。あの屋敷に帰ると思うと、やりきれないのよ」
「……紅」
「こんな感傷的な部分が残っているとは思わなかった。正直…今までの変化の中で一番驚いてる」

また一歩踏み出した彼女の髪が風に流れる。
光を反射させた亜麻色は、水面を揺れるかのように流れつつ、その色を金のそれへと変えた。
目線が少しばかり高くなり、自身の内に渦巻く妖気の量が増すのを感じ取る。

「こうして人間と妖怪の合間を漂う私は、人間界に在るべき存在ではないわ」

初めの頃よりも、佐倉への戻りが早くかつ確実になってきている。
恐らく、身体がそちらの感覚を取り戻し始めたのだろう。
人間と形容するにはすでに境界線を越えてしまっているのかもしれない、と紅は自嘲した。

「蔵馬はどうする?」
「…魔界で待つわ」
「置いていくのか」

コエンマの一言に紅は答えなかった。
ただ、自分の髪を指に絡めて遊ばせる。
そうでもして気を紛らわせなければ、すぐにでも指先が震えだすような気がした。
あぁ、やはり自分はまだあの日を忘れていないらしい。
屋上の終わり、フェンスに指先を触れさせたところで、彼女は漸く足を止めた。
彼女の耳に近づいてくる足音が聞こえていたが、煩く唸る風の所為で上手く聞こえない。
どちらかと言うとその風の音が聞きたくないのに、と思いながらも、それだけを遮断する術など無かった。

「ねぇ、コエンマ。蔵馬は人間界で幸せになれるでしょう?」

ただ、自分の存在が彼の隣から消えるだけ。
今までの時間をそうして過ごしてきたのだ。
出来ないはずはないだろう。

「人間として生きていって…それに飽きた頃に、魔界に戻ってくれればそれでいいの」

そのくらいの時間なら、待てる。
長い寿命の中のほんの数十年だ、堪えられない事はない。
もう二度と会えないかもしれないと思った暁斗だって居るのだ。

「だから、私は―――」

その言葉が最後まで紡がれる事はなかった。
背後から伸びてきた二本の腕の片方は腰に周り、もう片方が口を覆う。
まるでその続きを紡ぐ事を許さないとばかりに。
先程までこの場に居たのは紅とコエンマ。
一瞬警戒に身を硬くするが、慣れた腕に本能がそれを拒んだ。
ここまで近づくまで気付かなかったのは、心の迷いまでも吹き飛ばさんとばかりに吹き荒れる風の所為だ。

「それ以上は言わせない」

耳元で囁かれた声は低く、背筋がゾクリと逆立った。

―――怒っている。

声からそれを感じ取れないほどに浅い付き合いではない。

「蔵馬…何で戻ってるの…」

口元を覆っていた手がスッと下へとおりると、彼女は少しだけ首を動かして目を彷徨わせる。
その先に見たのはいつもの黒髪ではなく、寧ろ自分が見慣れている銀色の髪だ。
思えば、彼の着衣も白魔装束。

「それよりも、色々と聞くべき事がありそうだな」

くるんと身体を反転させられたかと思えば、背中をフェンスに追い詰められる。
思わず身を硬くする彼女に気付いたのか、蔵馬は彼女の腰を抱き寄せてその細い身体を腕の中に納めた。
しかし、依然として視線は絡めたままだ。
不愉快そうに細められた目が、射抜くように紅を見下ろす。

「幻海師範の屋敷に戻るのが嫌なら、南野秀一の元に来ればいい」
「…そう言う問題じゃない」
「悪いが、俺はもう二度と紅を手放すつもりはない。魔界へ帰ると言うなら、俺も共に行く」
「捨てられない人の言葉じゃないわ、蔵馬」

蔵馬の言葉に少しだけ眉を寄せ、紅は苛立ちを隠して冷静にそう答えた。
押しのけるように腕を使ったところで腕力の差は歴然。
無駄な努力に終わる事を理解している彼女は、大人しく彼が腕の力を緩めるのを待つ。

「なら、何が気に入らない?俺にはお前が必要だと言えば残るのか?」
「蔵馬には他にも大切な人間が居るでしょう!今はそちらを優先すればいいじゃない!」

柄にも無く声を荒らげ、紅は頬に添えられていた手を振りほどくように顔を背けた。
一方、彼女の言葉と行動に珍しく目を見開いたまま言葉を失う妖狐蔵馬。
この場に過去の仲間か、もしくは暁斗が居たとすれば彼らしくない様子にさぞかし驚くだろう。


気を緩めた所為か、紅の姿が人間のそれへと戻る。
それに続くようにして蔵馬も妖狐の姿から秀一の姿へと身体を変化させた。
両者の間には沈黙が落ちる。

「…紅」

頑なに視線を合わせようとしない彼女。
その名を呼べば一瞬目が揺らいだが、結局彼を映す事は無い。

「間違ってたら、笑ってくれていい」

蔵馬はそう前置きをして、口を開いた。
少し躊躇いがちではあったが、それでもしっかりと紡ぐ。

「もしかして…寂しかった…………とか」

紅が小さく息を呑む。
そして、逃げ出す事のできない腕の中から何とか逃れようとその腕を押した。
結果としては逆に深く引きずり込まれる事となったが。

「…幽助たちに…妬いたの?」
「………だったら何。こんな感情…自分でも持て余してるのよ」

戸愚呂と戦っていた最中や、戦いが終わったあとの幽助たちとの遣り取り。
それを見ていて、蔵馬にはそこに居場所があるのだと悟った。
同時に感じたのは小さな疎外感。
桑原の言っていた自分が妖怪であると言う事に間違いは無いのだから、自分の居場所はここではない。
一度感じてしまえば、その考えは驚くほどの速さで膨らんでしまった。

結局のところ、言葉として言い表すならばその感情の名前は嫉妬だ。

「…はは。そっか」
「笑わないで」
「笑ってるんじゃないよ。嬉しいんだ」

そう言って蔵馬はぎゅっと紅の身体を抱きしめた。
逃がさないように砦のように囲うのではなく、その体温を確かめるように強く。
自分の肩に顎を乗せて、また笑い声を上げる彼に紅は為すすべなく俯いた。

「何で今更小娘みたいな思いをしなきゃならないの…」
「拗ねない拗ねない。高校生ならおかしくないよ」
「私は高校生じゃないわ」
「今は現役高校生だろ?」

唸りそうな紅を宥めるように、蔵馬がその髪を撫でる。
まるでよしよしと子供のように扱われる事に対して軽く眉を寄せた。

「大丈夫。俺の一番はいつだって紅だから。幽助は確かに仲間だから仲は良いだろうけど…」

そこで、彼は唇を耳元へと寄せる。
そして囁くような優しい声で紡いだ。

「こうして抱きしめて誰よりも近くに置いておきたいのは紅だけだよ」

正直なところ、こんな歯の浮くような台詞にも慣れたと思っていた。
それなのに、今日はどうにも身体や感情の勝手が違うらしい。
頬に熱が集まるのを自覚して、紅はそれを隠すように彼の胸元に額を寄せる。
また楽しげな笑い声が降って来たが、それに対しての反論をあげる事も出来なかった。

「それにしても…嫌われたのかと思ったよ」
「…悪かったわね、お騒がせして」
「いや、全然。寧ろ、可愛いよ。佐倉の時の美人で綺麗な紅も好きだけど…可愛い」
「――――――!」
「こんなに照れる紅が見られる日が来るとは思わなかったな」

現状を大いに楽しんでいる蔵馬と、それに対して色々と感情を浮かべる紅の二人は知る由も無い。
見守っていた二人の人物が、扉の影で呆れたように溜め息を吐き出していることを。

06.09.19