悠久に馳せる想い

紅がドームに姿を見せると、一番に反応したのはやはりと言うか桑原だった。
迷うように視線を彷徨わせたあと、意を決したように頷いて近づいてくる。
だが、彼女を中心に3メートルの範囲に踏み込もうとした時、紅の右腕を絡め取っていた暁斗が鋭い殺気を放った。
それ以上の進行を許さないとばかりに、尾を膨らませて鋭い牙すら見せる。
紅は右の彼を見下ろし、苦笑してその銀色の髪を梳く。

「謝るつもりなら離れた方がいい。この子はそう簡単に許してはくれないわ」
「でもよ…あれは…」
「君が何を思っているのか、私は知らない。
けれど、人間と妖怪の間に溝があると感じている以上、どこまで行っても平行線よ。決して交わらない。
一時の感情の迷いだとしても、君の中に深く根付いたそれが顔を出しただけの事」

反省したから、失言だったと思うから、謝罪する。
それでは何も解決しないのだ。
結局根底にあるそれは何も変わらないのだから。
言外に含まれた彼女の考えに気付いたのか、はたまた彼女の言葉自体に気を悪くしたのか。
どちらかは分からないが、兎に角桑原は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。

「謝る必要はないわ。後悔を和らげる材料になってあげるほど、私は優しくはない」

そう言い終えると、紅は梃子でも自分の傍から動きそうにない暁斗をひょいと抱き上げる。
母親大好きっ子の彼はすぐに彼女の首に自分の腕を絡めた。
だが、依然として視線は桑原を睨みつけたまま。
どうあっても引くつもりのない彼に苦笑を浮かべつつ、これ以上の殺気を浴びせるのは身体に毒だと気付く。
そして彼女はチラリと蔵馬と視線を絡めた後、その場を離れた。

「紅は厳しい。特に、自分が一定の所まで認めた者に対してはね。まるで、妥協する事を知らないみたいに」

暁斗の殺気から外れた桑原は額から頬へと汗を伝わせる。
ここまで勝ったり負けたりしながらも何とか命を繋いできたが、暁斗が相手だったならばこの場には居なかっただろう。
明らかな実力の差を痛感した。
蔵馬はそんな彼に言葉をかけつつ、その肩をぽんと叩く。
途端に、ハッと我に返る桑原。

「ま、今回は君が反省すべきですよ、桑原くん」

精々悩んでください、と彼は口元に笑みを浮かべた。
桑原の向ける、その縋るような目が見えていないわけでもないだろう。
紅も優しくはないが、蔵馬も十分優しくない。
どちらも敵に回せば恐ろしいし、味方だったとしても油断できない。
遠目にその遣り取りを見ていた飛影はそんな事を考えていた。










紅としては、戸愚呂が勝とうが幽助が勝とうがどちらでも構わなかった。
命を望むと言うならば、殺せるものなら殺してみろと言う心境だ。
彼女にかかれば、人間界では制限されていても魔界に戻ればいくらでも追手を撒く方法などある。
魔界に戻る事自体も、コエンマと繋がりのある彼女からすればそう難しいことではない。
ただ―――何の根拠もなく、幽助は負けないと思った。

「不思議な人ね…」
「母さん?」
「人間に頼もしいと感じたのは…蔵馬以外では彼が初めてだわ」

そう呟くと、胸元に提げた絳華石を軽く握り締める。
彼女を中心に、その場に赤い結界が生まれた。
それとほぼ時を同じくして、ドームの所々で同様に赤い結界が出来上がる。




「これは…」
「紅の結界だべ」

陣と凍矢は、自分達の懐に仕舞いこんでいた赤い石…絳華石がほんのりと光を帯びていることに気付く。
同時に、自分達の周囲に赤い結界が張った。
身を震わせていた戸愚呂の殺気やら妖気やらが一切遮断され、微温湯のような心地よい空間に包まれる。
怪我が完全に完治しているわけではない自分達にとって、この結界はありがたかった。











80%の力から始めると言った戸愚呂は、今や幽助を認めて100%の実力を出そうとしていた。
ドーム内の至る所で弱小妖怪の断末魔や呻き声が聞こえる。
妖気に中てられたのだろう。
それによって死んだ妖怪の魂が次々と戸愚呂に取り込まれていった。
彼曰く、エサだそうだ。

「この結界の外に出たら俺も危ないかな?」

ふと、場の空気を読んでいないのか暁斗がそんな疑問を口にした。
今しがた戸愚呂の指先が桑原の胸元へと埋まり、その場には緊張が走っていると言うのに。
大物と言うか何と言うか…紅は自分の息子に苦笑を浮かべ、その頭を撫でた。

「暁斗はあんな一妖怪風情にやられるほど弱くはないわ」

彼女が口にした答えは親の欲目ではなく、事実。
今はまだ幼いけれど、行く行くは魔界の一角を支配できるほどの実力はある。
父親に似て、それを隠す術を覚えているだけだ。

「母さんはあんまり悲しそうじゃないね。あの人間が死んだのに」

倒れた桑原を指差しながら暁斗が言う。
まず駆け寄ったのは蔵馬で、彼は崩れ落ちる桑原に必死に呼びかけていた。
それすらもどこかフィルター越しで、自分は結局は人間と深く相容れるものではないのだと自嘲する。
冷静な視線は、蔵馬よりも暁斗に近いということを示しているのだろう。
彼よりは人間を好いているけれど、蔵馬ほどではない。
寧ろその愛情はただ蔵馬と、今は亡き師にのみ向けられていると言っても過言ではないようだ。
様子の変わった幽助を眺めつつも、やはり危機感などは浮かばなかった。
















幽助と戸愚呂の決着がついた。
ドームはすでに殆どの形を失っており、また中に居た観客も一握りだ。
他の者は幽助が戸愚呂に負けることを恐れて逃げ出した。
マイク越しの勝利宣言を耳にしながら、紅は歩き出す。
すでに結界はなく、瓦礫に足を取られないように彼らのもとへと近づいた。

「あぁ、やっぱり死んでなかったみたいね」

桑原の死を悼み嘆く幽助の傍らでぴんぴんしている桑原本人。
傷を癒す能力ゆえに死に関わる事の多い紅は、あの戸愚呂の攻撃が致命傷を与えていない事を理解していた。

「何だ、気付いとったのか」
「もちろん。それより…コエンマ、話があるわ」

紅の声を拾い上げたのは、彼女が隣に並んだ人物――コエンマだった。
騒ぐ彼らを横目に、彼女はその視線を彼に向ける。

「何だ?」
「…魔界への扉はどの程度で開いてもらえるのかしら」

ポツリと漏らした言葉に、コエンマは思わずおしゃぶりを落としそうになった。
だが、そこは何とか耐える。

「帰るのか?」
「こっちは向いていないのかなって思って。私の肌に合うのは向こうだわ」

言葉を聞いた暁斗が嬉しそうに尾を振って紅の腕にしがみ付いた。
彼は人間界よりも魔界の方が断然好きなのだろう。
帰れるかもしれないと言う事が嬉しいらしい。

「お前ほどの妖怪となれば用意させるのは簡単だが…時間が掛かるな」
「…そう。近いうちに頼むかもしれない。それだけは覚えておいて」

そう言って蔵馬の元へと歩こうとした紅の背中に、コエンマが声を掛ける。

「蔵馬はどうする」

彼女の肩が揺れた。
しかし、それに返事を返す前にドームが激しい振動に包まれる。
左京による最後の後始末――だった。

06.09.11