悠久に馳せる想い

「母さんは俺が守る」

数十年前に言った言葉を、あの人はまだ覚えてくれているだろうか。
落ちてきた眼は冷たく見えて、それで居て優しいと思った。
薄く緩んだ口元と共に頭に載せられた手に、酷く安堵したのを覚えている。

「お前にはまだ早い。だが―――」

続いた言葉に、まだ幼かった自分は小さな怒りを覚えた。
縁起でもない事を、と言えばあの人はその表情を崩さないままに頭に載せた手をゆっくりと動かす。

「約束だ。出来るな?」

目線を合わせるように膝を地へ下ろし、そう問いかける。
頷く以外に答えなど用意されていないそれ。
同じ目線での言葉に、言い知れぬ使命感を自身の中で膨らませながら頷いた。

















普段は不必要なほどに冷静沈着で、心を乱す事など滅多にない。
それが母である紅に対する、暁斗の見解だった。
だが、今自分の隣でじっとリングを見下ろす彼女に、そんな母本来の姿を重ね合わせる事は出来ない。
時折不安げに眼差しを揺らし、その柳眉を中央へと寄せる姿。
真っ直ぐ一人だけを映すその眼を見上げ、暁斗はその人が彼女にとって何よりも大切なのだと改めて悟る。
その時、リング上で南野秀一の身体を爆発が包み込んだ。
同時に暁斗は自分の感覚器官が訴えるそれに気付く。
やや遅すぎるが、ギリギリの所で何とか間に合ったらしい。

「用意周到な父さんにしては珍しく危うかったね」
「…恐らく、身体が慣れてしまったのよ。一度体内に含んだ事のある物質に対しては免疫がつくから」

妖狐の姿を取り戻したことで、気持ち的に余裕が出来たらしい。
苦笑に似た笑みを浮かべ、紅は暁斗に向けてそう言った。
そんな彼女の反応を見て彼は「つくづく…」と思う。

「(盲目、だよね。)」

両親の仲が良いのはいい事だが、忘れてはいけないのは二人が本来は妖怪であると言う事。
魔界に生きる妖怪にとって、馴れ合いが死に直結することも決して有り得ない話ではない。
番の間に愛情がある事も少なくは無いが、やはり寄り添う理由は子孫繁栄が大きい。
お互いの為に自身の全てを注ぐ二人は妖怪らしくなく、それで居て相手を思う故の行動は不必要なほどに冷酷で妖怪らしい。
そんな矛盾が共存する二人だからこそ、一度は別れたものの再びこうして出逢えているのだろう。
対する磁力が引き合うように、彼らが共に在る事が何よりも自然な形であった。









一度は妖狐の姿へと戻った蔵馬だったが、その後再び妖力を失い南野秀一へと変化する。
すでに万策尽きたかと思われ、会場は彼を殺せと沸く。
止めの一撃を食らわせようとしたまさにその時、彼が呼んだ吸血植物に紅は眉を寄せる。
長年連れ添った紅が、その植物を知らないわけが無かった。
生身の人間である秀一の身体で呼べば、間違いなく死に直結する召喚。
それを、この会場内で蔵馬の次に理解している彼女はただ目を細めた。
揺るがない不安など有りはしないが、それでも自身の本能が訴える。

「か、あさん…」

くいと着衣の裾を引かれた彼女は、暁斗の方へと視線を下ろす。
顔色悪く汗を頬に伝わせる彼に、紅は彼も幼いながらにあの吸血植物を知っているのだと気付く。
僅かに裾から伝わる震えは、父親を失う怖さからか、それとも別のものからか―――
何を答えるでもなく再びリングへと戻した視界で、蔵馬の身体が揺れる。
ゆっくりと、しかし確実に身体を起こした彼に、隣の暁斗がほっと安堵の息を漏らした。
仲間が逆転勝利と沸く中、紅はその腰を上げつつ静かに呟く。

「試合に負けて勝負に勝った、か―――」
「母さん?」

呼び止める声も聞かず、紅はトンッとその場を踏み切る。
重力を感じさせない軽やかさで観客席から降り立ち、彼女はそのまま暁斗を振り返る事無く歩いていく。
暫しその行動に首を傾げた彼だが、幽助に支えられてリングを降りてくる蔵馬を見て納得した。

『試合終了―――!!鴉選手の勝利です!!』

そんなアナウンスが聞こえ、彼女の行動は脳裏から飛ばされる。
どう言う事だと訳がわからないままに、暁斗も同じく立ち上がった。
自身の肩に飛び乗った悠希を落とさないようにその手を沿え、自分よりも少し低いだけの柵を容易に飛び越える。
そして彼もまた、父の元へと駆けていった。
















彼の敗因は10カウント。
何とも呆気ない幕引きに浦飯一派は何とも言えない表情を作り出した。
会場内が「あと2勝」と再び沸き返る。

「生き残りゃこっちのもんよ!!」

会場の喧騒に対してそう声を荒らげる桑原だが、ふと静まり返る場内に戸愚呂兄の声が響く。
聞きたくも無い声ではあるが、こうも静まってくれれば否応無しに耳に入った。

「わかってないな。忘れたか?優勝チームのメンバーにはそれぞれほうびがもらえることを」

そう言って、見下すような態度で彼は続ける。
その尊大な態度を目に入れることすらせず、紅は歩みを進めていた。

「俺の望みを教えてやろう。お前ら全員の死だ」

戸愚呂兄は弟の肩に乗ったまま、視線を桑原から始まり全員を見回し、そして最後に紅へと向けた。
舐めるようなそれに眉を寄せつつ、紅は漸く視線を上げる。
挑むでもなくただ見返すだけの冷たい眼に、戸愚呂兄はにぃと口角を持ち上げた。

「まぁ、佐倉ならば情婦として生かしてやっても構わんがな」
「生憎私の旦那は男前でね。あんたのような不細工に開くような心も脚も持ち合わせては居ない」

それだけを言ってしまうと紅はふいっと視線を逸らし、一人で歩くのもままならない蔵馬を幽助から受け取る。
戸愚呂兄は舌を打ち、興味が逸れたとばかりに矛先を変えた。
安い挑発に敢えて乗った飛影が、リングへと上がり二回戦の開始がマイク越しに言い渡される。
それを横目で捉えつつ、紅は観客席へと繋がる壁に蔵馬を凭れさせるようにして座らせた。

「………ごめん」

自身の首に絳華石のペンダントをかける紅に、蔵馬が静かにそう言った。
一瞬動きを止める彼女だが、すぐに動きを再開して絳華石の妖力を最大まであげる。
彼を包み込んだ赤い結界が徐々にその傷を癒すのを見届け、紅は自分の右手を振りかぶった。
パンッと乾いた音は、リングからの轟音に掻き消される。
蔵馬は驚いた様子で、膝をつき自分よりも高い位置にある紅の眼を見上げた。

「次、こんな事をしたら舌を噛むわよ」

彼を傷つけるのではなく、自身を傷つける。
一見無効化にも思える言動だが、自身が傷つく事を厭わぬこの二人の間では全く逆の効果を生む言葉だ。
言うならば、聞かざるを得ない鎖の言霊。
蔵馬の頬を打った自身の手を握り、紅は唇を噛む。
涙こそ無いものの、自身の身を案じていたと言う事は明白だった。
ふと表情を緩め、蔵馬は唇を開く。

「…これからは気をつける」
「そうして。舌噛んだところで死ねないけど、痛いことに変わりは無いわ」

冷たく答えているようには見えても、蔵馬の傷を癒す手は止めない。
自身の手を離れても大丈夫と言うところまで手伝うと、紅はその手を離して彼の隣に背中を預けた。

「父さん…」

控えめな声と、顔に掛かった影。
蔵馬は落としていた視線を持ち上げて暁斗を見た。
心配そうな表情を浮かべる彼に、安心させるよう笑みを浮かべる。

「大丈夫だよ」
「満身創痍の状態でよくそんな事が言えるものだわ」

即座に降ってきた言葉に彼は笑みを苦笑へと切り替えた。
すでに自身を包んでいた結界は無く、治療は漸く身体を動かせる程度で止められている。
チクチクと刺すような痛みを残された治療は、命を懸けた事に対しての紅の怒りの表れなのだろう。

「…約束、守らなきゃいけなくなったらどうしようかと思った」

暁斗の言葉に蔵馬は軽く目を見開く。
覚えていたのか…と言う呟きに、暁斗は当然と返した。

「そうか。…まだまだこの役は降りないよ」

そう言って笑みを浮かべ、蔵馬は暁斗の頭を撫でる。
腕を動かしただけでも痛みに顔を顰める彼を見て、暁斗はふと言葉を零す。

「………こう言うとき何て言うんだっけ…」

痛みに耐えるように頬を引きつらせた蔵馬を見て暁斗が首を傾げる。
うーん…と悩んでいた彼は、不意にその言葉を思い出した。

「あ、そうだ。自業自得だ」
「…ははは」

蔵馬の乾いた笑みを耳に捉えながら、紅はリングへと視線を固定する。
武威と飛影の試合は、観客を巻き込んでの荒れ試合となった。

06.06.04