悠久に馳せる想い
周囲の興奮が耳障りだ。
紅は静かに眉間に皺を刻みながらリングを見下ろした。
喧騒が大きくなればなるほど、彼女の思考は興奮とは縁のない世界へと誘われていく。
酷く冷静で、それでいて冷酷な眼差しが彼女の表情を冷たく彩った。
「佐倉様…」
「この決勝戦、荒れるわね」
そう紡ぐと同時に彼女は自身の金色の髪を掻き揚げる。
妖怪の多い観客席の中で、人間の姿を取るのは周囲の反応が鬱陶しい。
面倒な争いを避けるために、紅は初めから佐倉の姿をとることで周囲を牽制していた。
彼女の容姿を知らないまでも、それを知る者が自然と口コミで広げてくれる。
あの場所に座る金髪の妖狐は『血の要塞』佐倉だ、と。
彼女の実力を考えれば、人の不幸を喜ぶだけの者を遠ざけるのは名前だけでも十分だ。
現に、右隣に腰を下ろす暁斗とその反対に身体を丸める悠希以外に妖怪も人も居ない。
最前列と言う、観客にはとてつもなくいい席であるにも拘らず。
「父さんは強いよね」
ポツリと落とした言葉は小さく、聞き逃してしまいそうなもの。
しかし紅の聴力をもってすればそれを聞きとるなど容易かった。
彼女は驚いたように彼を見つめ、そして笑みを浮かべてその頭を撫でる。
「強いわよ」
恐らく本気を出せば自分よりも強いだろう。
結界と言う面に関しては紅が勝るのは当然の事。
蔵馬がそれを破る事ができるかは難しいところだが、それを抜きにすれば彼の方がやや上と言ったところか。
彼が紅に本気を出すなどありえない事だから、その真実は闇の中だが。
「ねぇ、母さん…」
不意に、暁斗が低い声で紅を呼んだ。
彼の声に反応して彼女は視線を自身の隣へと向ける。
少しばかり躊躇った後、彼はゆっくりと口を開いた。
「…もし……もしもだよ。……もし…父さんが…死んだら…」
どうするの?
最後まで紡ぐ事は出来なかった。
彼自身、その言葉が母の地雷である事はよく理解している。
彼女の前では、自分など赤子よりもちっぽけな存在なのだ。
言い終わるが早いか、沈黙と共に暁斗は顔を俯ける。
そんな彼を、紅は酷く冷静な目で見つめていた。
そして、その視線をリングの上へと向ける。
リングに上がった蔵馬はこちらを振り向き、紅と視線が絡んだことを確認するなり視線を元に戻す。
それ以上彼がこちらを気にして振り向く事は無かった。
「…蔵馬が、死んだら…そうね。少なくとも、相手と………この辺り一帯は跡形も無く消滅するかしらね」
まるで人事のように語る紅に、暁斗は背筋が凍るような感覚を味わった。
事実、彼女にはそれを実現させるだけの力がある。
普段ストッパーの役目となっている蔵馬の存在がそれを抑えているが、彼を失えば暴走する事は必至。
聞くまでもなかったか、と暁斗は青ざめ口元を引きつらせながら心中で思った。
やると言えばやる。
それがこの人だ。
「いっそ魔界に通じる穴でもぶち開けて魔界の消滅って言うのも面白いけど…流石にそれは手間が掛かるから」
「(見惚れるような笑顔で言うような事じゃないって!)」
恐ろしい事をサラリと吐きながらも彼女のその顔立ちが醜く歪むなどありえない。
息子としての欲目を取り除いたとしても、冷酷にも見える眼差しでさえ美しいと思える。
彼女の言動と容姿のギャップに慣れてしまっている自分が、少しだけ恐ろしく感じた。
「あ、でもさ。絳華石を持ってるなら父さんが死ぬなんてありえないよね!」
話を逸らそうと、暁斗は極力明るい声でそう言った。
だが、それが紅を煽る事になるなど…彼は思っていない。
状況は良くなる、そう信じて疑わなかった彼のふさふさした耳に届いたのは、先程よりも低くなった声。
「…そうね。絳華石を持っていれば、ね」
そう言って彼女は自身の胸元に手を伸ばす。
着衣の合わせ目からその指を内へと滑り込ませ、何かを掴むと手を引いた。
細く白い指先に映える、ペンダントのように作り直された赤い石。
「絳…華石…?」
暁斗はバッと自身の首に掛かっているペンダントを着衣から引きずり出す。
上等な革紐の先には、彼女の指にあるそれと全く同じ絳華石が揺れていて、そっと安堵の息を漏らした。
「俺のじゃないよ?」
「それくらいわかってるわ。この石には持ち主の妖気が染み付いてるもの」
愛おしむようにそれを指で撫でる紅だが、その表情は険しい。
彼女に言葉を受けて、暁斗はその石に少しだけ集中してみた。
感じ取ったのは、慣れ親しんだ妖気。
「………うわぁ…父さん勇者だね…」
「無謀よ」
「…ごめんなさい」
即座に返ってきた言葉に暁斗は耳を垂らしながら素直に謝る。
自分が謝る必要などないではないか、と思いつつも、苛立つ彼女をこれ以上不機嫌にさせることは得策ではない。
この辺の切り替えの速さは、父親譲りと言えるだろう。
尤も、彼は気付いていないが…いくら苛立っているとは言え、息子に当たるほど紅も大人気なくは無い。
目線で黙らせようとはするが、彼をどうこうする事など万が一にもありえないのだ。
「守らなかったら、許さないから…」
小さく呟き、手の中の絳華石を転がした。
彼女の脳裏に浮かぶのは、今朝彼と別れた時の事―――。
「紅は観客席に?」
「ええ。この姿でね」
気味の悪い廊下にももう慣れた。
二人でそこを進んでいると、不意に蔵馬がそう問いかける。
紅は彼に答えを返しつつ、自身の妖気を高めた。
ザワリと妖気の波が全身に広がり、瞬く間に彼女の姿を変化させる。
「もう自由自在みたいだな」
「蔵馬みたいに失っていたわけじゃなくて封印してあっただけだもの」
そう言って、彼女は手首に巻きつけてあった飾り紐を解いて金糸を低い位置で結う。
生温い風が不愉快に二人の頬を撫でていった。
「元々在るものを引き出すのと、無いものを生み出すのとでは訳が違うわ」
この場合紅は前者、蔵馬は後者に当たる。
気に病む必要はどこにもないのだという事を裏に隠した言葉に、蔵馬は苦笑を浮かべた。
彼女がそんな事を気にしていないとわかっていても、早く取り戻せるに越した事は無い。
僅かな焦りが、彼の背を押した。
「紅」
「ん?」
不意に彼が足を止め、少し背後に下がってから紅を呼ぶ。
紅も同じく歩みを止めると、振り向いて彼に向き直った。
そんな彼女の手を取ると、蔵馬はその上にある物を落とす。
「…蔵馬…どう言う事?」
自身の手の中に落とされたそれを見下ろし、紅は眉を顰めてそう問いかける。
これを彼に渡したのはもう随分前の事になるが、彼は今でも覚えているはずだ。
何があっても、これを肌身離さず持っていて欲しい。
手渡す時に、紅が二度念を押してまで頼んだこと。
「返すわけじゃない。ただ、預かっていて欲しい。…貰い物を預かってもらうって言うのも変だけど…」
「そういう事じゃない。あなた、今から何をするかわかってるの?」
いよいよ彼女の表情が険しくなる。
あぁ、怒らせてしまったな、と思いながらも、彼には引けない理由があった。
「今までもこれからも、それには世話になると思う。でも、今回だけはその力を借りるわけにはいかないんだ」
正直なところ、蔵馬は内心背筋の凍る思いをしていた。
僅かに乱れた彼女の妖気を一身に受けるのは、南野秀一の身体にとって非常に悪い。
それを表情に出さないあたりに、彼の慣れを感じる。
「…正直に言わせて貰うと、今の蔵馬だと負ける可能性の方が高い」
「………あぁ、そうだろうな」
「……それをわかった上で、預けるのね?」
手の上に乗せた絳華石を握ろうとせず、指を自然に開いたままで紅は尋ねる。
怒りと言うよりは呆れに近い表情だ。
「鴉を倒すのに、紅の力を借りるわけにはいかないんだ」
ごめん、と眉を下げる彼に、紅は静かに溜め息を落とす。
そして指の関節を動かし、絳華石を握り締めた。
「なら、預かるわ。あなたの誇りを穢すのは、例え自分自身でも許せないから。その代わり…」
紅は空いている方の手を彼へと伸ばし、その胸倉を引き寄せる。
唇が触れ合いそうなほどに近づけられた蔵馬はきょとんと目を見開くが抵抗はしない。
こつんと額同士が触れ合い、琥珀を嵌め込んだかのような金の眼が彼を映した。
「絶対に、何があっても自分で取りに来て」
言葉で誓う代わりに、金糸に指を通して引き寄せ、その唇に口付ける。
06.05.08