悠久に馳せる想い

しがみ付く様に握られた指を一本ずつゆっくりと解く。
これほどに安心していて大丈夫なのだろうかという不安が過ぎるが、自分の傍だからだろうと納得した。
あどけない表情に笑みを零し、その頬にそっと唇を落とす。
そして、足音一つ立てないままに彼女は部屋を後にした。











僅かに朝日が顔を覗かせ始めているが、未だ外は薄暗い。
カサリと草を踏みしめる音に、蔵馬はゆっくりと振り向いた。

「その辺にしておいた方がいいと思うわ。あまり使いすぎると本番までもたない」
「そうするよ」

振るっていた薔薇の鞭を足元に落とし、彼は着衣の枯葉を払う。
そんな彼の行動を横目に、紅は朝日の昇る方角を見つめた。

「眠れた?」

草を踏む音と共に隣から声がかかる。
紅は隣に並んだ蔵馬の方を見つめ、そして頷いた。

「暁斗のおかげかもしれないわね。あの子が抱きついて離れなかったのなんて、何年ぶりかしら」
「二人一緒の寝顔を見たのは30年ぶりくらいだね」
「…甘やかすなって息子を部屋から放り出したのはあなたでしょう…」

30年前と言えばもちろん二人が妖狐の時代の話だ。
まだ十分に『幼い』と形容できるくらいだった暁斗。
彼は『邪魔』と言う本音を甘やかさないという理由で包み覆われたままに部屋を放り出された。
無論、誰よりも佐倉との時間を望んだ父親の手によって。
初めの頃こそ色々と駄々捏ねては見たものの、彼がその意見を覆さない事くらい幼いながらに理解出来ていた。
寝付くまでは母親に付き添ってもらう事を妥協点として、暁斗は自身の一人部屋を受け入れるほか無かったのである。

「あの子が一番厄介だからね」

事も無げに、蔵馬は笑顔でそう答えた。
他人ではない、自身と彼女の血を継ぐ者。
決して離れる事のない繋がりがそこにあった。
もっとも、ただ純粋に彼を可愛がる気持ちもあるのだが。

「………独占欲や嫉妬心の強い夫を持つと苦労するわ…」

苦笑と共に彼女はそう紡ぎ、いつの間にか腰を下ろしていた蔵馬の隣に座る。
そして彼の肩へと凭れかかり、彼の着衣を指で絡め取った。
珍しく甘えてくる彼女を突き放すなど蔵馬がするはずも無く、受け入れるようにその身体を抱き寄せる。
絡めるのは袖ではなく、自身の指だった。

「どうした?」
「…相手はきっと鴉よね…?」
「あぁ、恐らく。それが何か?」

質問の意図がわからないと、蔵馬は首を傾げる。
そんな彼を眺めながら紅は言うべきか言わざるべきかを悩んでいた。
隠し事をしていると言う事実は、これが中々自分を重く縛るものだ。
しかし…はっきりと口にして良いものかと悩む。

「…紅?隠すつもりなら徹底して欲しいな」

要は、言い始めてしまったのなら覚悟を決めて最後まで紡げ、と。
彼は言外にそう込めて言った。
これ以上沈黙を貫く事は出来ないし、誤魔化しも利かないだろう。
深い溜め息のあと、彼女は渋々口を開いた。

「船の上で会ったと言ったわよね。これに関しては不可抗力よ。
あいつらが閉じ込めている気になっていた部屋に勝手に入ってきたのは向こう」
「ああ。それで?」
「…妖気をね………渡されたの」
「………………………………………………」

それだけで、彼女が何を言わんとしているのかがわかったようだ。
自身の肩を抱き寄せている蔵馬の手に力が篭る。
やはり怒らせたか…と内心溜め息を吐き出した紅だが、不意に顎を取られて半ば強制的に彼を見上げる。
何を確認する間もなく重ねられた唇は執拗に彼女のそれを貪った。
本来が妖怪である以上人間よりは息が長いといっても、所詮身体は人間のもの。
空気を求めて薄く開いた唇から滑り込んだのはもちろん求めたそれではなく。
窒息しない程度に休息は取らせるものの呼吸を整える暇は与えない。
強引以外の何者にも取れない口付けを甘んじて受け入れるのは、彼が彼故のことなのだろう。

「隙が多いのか、あまりにも魅力がありすぎるのか…」

自身のタイミングで息継ぎを出来ていた蔵馬の呼吸は普段通り。
戦うよりも早い時間で疲労を感じつつ、紅は彼に凭れかかる形で呼吸を整えていた。
呟かれた言葉の内容は彼女からすれば「そんなの知ったことではない」だ。
確かに口付けに関しては相性が合う筈がないと理解しているから拒む事は無い。
自身の行動で痛い目を見るのが一番だという考えからなのだが…。
相手からの行動とは言え、やはり蔵馬からすれば面白くない…寧ろ腹立たしい事なのだろうか。
やや酸欠気味の脳内でぼんやりと考える。

「それにしても…完膚なきまでに潰す理由が出来たな…」

クスクスと笑う声は低く、決して遊びで紡いでいるのではないとわかる。
無事では済まされない鴉の事を一瞬だけ考え、すぐに自業自得だとそれを消し去った。

「それにしても、朱雀の時といい今回といい…抵抗してないんだろう?」
「…だって、勝手に痛い目見るんだから楽じゃない…?」
「………まだ反省が足りない?」
「え!?…これからは気をつける…ように努力するわ」

笑顔と共に顎に添えられた手に紅は珍しく慌てた様子で自身の言葉を訂正する。
そんな彼女を見てクスクスと笑うと、彼は添えた手を頬へと移動させ、ぐいんとそれを引いた。
滑らかな肌が彼の手によって両側へと伸ばされる。
何するの、という文句は言葉にならない声となって蔵馬の耳に届くだけだった。

「まったく…。油断していたと言われる方がまだマシだね。初めから抵抗の意思がないのはいただけない」
「…ごめん…なさい?」
「そこは疑問系で無く素直に謝るように。
しかも船を下りてから体調を崩していないところを見ると、妖気自体は不必要に反発しなかったんだね」
「…………………………………」

反発が起きた時の自身の身体の変化を知る蔵馬に叶うはずがない。
躊躇うように視線を逸らし、そして頷く紅。
彼女の反応を見届け、蔵馬はその身体を抱き寄せる。
首に顎を乗せる形でしっかりと彼女を抱きしめ、その背に回す腕に力を篭める。

「頼むから…俺だけのものに」
「………私は蔵馬以外のものにはならないわ」
「心だけじゃなくて、髪一筋も触れさせるな」

不意に口調が変化したかと思えば、黒だった髪がざわりと白銀に移り変わってゆく。
その変化を見つめ、紅は彼が妖狐に戻っているのだと悟った。
感情の起伏が薬の力を増徴させているらしい。

「行動を咎めたくはないが、お前に触れる者は俺だけでいい」

その金色の眼に映る事さえも許せない程に彼女を想う、と。
口で告げるのは簡単で、しかしそれを自身の全ての想いとして伝えるのは難しい。
言葉と言うものは酷く不安定で、それで居て移り変わりの激しいものであるが故。

「自分に力が無い事…それが口惜しいな。秀一の姿ではお前を俺に繋いでおく事すら叶わない」
「そんな事は無いわ。私は…いつだってあなたの傍に居るから」
「だが、この唇が他の男を許したのは………そう言う事だ」

そう言って彼の親指が唇を撫でる。
彼のその言葉で、紅は漸く気付く事が出来た。
あの冷静沈着な蔵馬が妖狐へと姿を変えるほどに感情を揺らす理由。
三人―――それは蔵馬と出会って以降、紅が唇を重ねた男の数。
一度は佐倉の時に、残りの二度は朱雀とそして今回の鴉。
妖狐蔵馬の傍らで生きていた時…
彼が片時も目を離さなかった所為か、彼女を手の内にと考える妖怪は彼女に近づくことさえ出来ていなかった。
目に見える形で守られる事を嫌った紅を、圧力と言う形で彼が周囲を固めていたからだ。
蔵馬は今、自分が人間であるがゆえにそれが出来ないと悔やんでいる。

「…ごめんなさい」
「………形だけでもいい。俺を想うなら、俺以外を許すな」
「今度からちゃんと気をつける」

彼女の返答が変わった事から、蔵馬は自身の想いが伝わったのだと判断した。
間もなく秀一の姿に戻るであろう自身の内の変化に舌を打ちつつ、もう一度彼女を腕の中に閉じ込める。
迷う事無く背中へと回される腕は、自分だけが持つ特権なのだと知っている。
それだけでは抑えきれない独占欲が内に渦巻いているのを感じ、蔵馬は内心苦笑を浮かべた。

「愛しているよ、紅。いずれこの姿での再会を楽しみたいものだ」
「…きっと、その日は近いわ」

そう答えると、紅は蔵馬の耳元へと唇を寄せる。
吐息が掛かったのかピクリと動くそれを見て微笑みつつ、唇を開いた。

「私も愛してる。あなただけが全てだから」

告げるなりその胸元へと額を寄せる。
彼の妖力が変化を見せ、妖狐蔵馬は南野秀一へと戻った。
だがそれは彼女にとっては取るに足らない変化。
蔵馬が蔵馬である事は、何一つ変わりの無いものだから。

06.04.13