悠久に馳せる想い




命の灯火の消える音を聞いた。
途端に胸を締め付ける焦燥感と共に、何かを求める感情だけが先走る。
抑えきれない妖力の波が紅の身体を内から支配して、その姿を変化させた。
敷き詰められた絨毯に膝をつき、その身体を折る彼女。
膝よりも少しばかり短いだけの金髪がベージュの絨毯に緩やかな弧を描いて広がった。

「…蔵馬…っ」

求めているものは心の安定。
無意識に本能が求めるものは、彼以外にありえなかった。

「紅っ!」

その妖気を感じる間もなく部屋に飛び込んできたのは銀髪の妖狐だった。
普段ならば見られるはずの無いその姿に驚く余裕も無く、紅は反射的に彼の声に身体を動かす。
勢いを殺さぬままに自身の胸に飛び込んできた彼女を、蔵馬は難なく受け止めた。
彼女の背を抱きながら後ろ手に扉を閉めて鍵までかける。

「…幻海師範、か…」

何があったと問う代わりに蔵馬は確定的な言葉を呟く。
彼女の肩が震えたのはそれが肯定を示しているからだろう。
蔵馬は安心させるようにと彼女を抱きしめながらその金糸に指を通す。
ふと、その動作を繰り返していた彼の耳に廊下をゆく人の声が届いた。
それに背中を押されるようにして蔵馬は紅の身体を抱き上げる。
慣れたように、着衣を握っていた指を解いてその腕を蔵馬の首に絡める紅。
いつに無く不安定な様子の彼女を気にしつつも彼は部屋の中心へと足を進める。

「………かった…」
「紅?」

不意に耳元で呟かれた言葉の一部に、蔵馬はその歩みを止めて紅を見下ろす。
首元に顔を埋めるようにしている彼女の表情は読み取れない。

「こんな………なら………かった…っ」

――こんな弱さならいらなかった――

小さく紡がれた言葉の端々を読み取り、蔵馬はそれを導き出す。

「お前は弱くない」

その一言を耳元に囁くと、小さく震える身体をより強く抱きしめる。
それ以上の言葉は今の彼女には逆効果だということを理解している彼ゆえの行動だった。












「昔話したと思うけど…親には尊敬こそあるけれど、それ以上の感情なんてない」

ベッドに座り、膝の上で手を握り締めたまま紅は口を開く。
涙を流す事は無かったものの、依然として不安定だった彼女が落ち着いたのはつい先程のこと。

「今でも魔界のどこかで生きているだろうな…探したいか?」
「いいえ。逢いたいなんて思わないし、向こうもそんな事考えてもいないわ」

寧ろ逢いに行けば門前払いだ、と紅は首を振る。
思い出すように少しだけ笑みを点した彼女に蔵馬は心の中で安堵の息を漏らす。

「ある程度実力がついたところで否応無しに放り出したような人たちだから…それ以上を覚えろと言うほうが無理ね」
「…まぁ、魔界では珍しい事ではないからな」
「ええ。少なくとも、力を与えられた分私は恵まれていたでしょうね」

そのおかげで蔵馬と逢えたのだと思えば、放り出された事すらも感謝できる。
そう笑った紅の額に唇を落として髪を指に絡ませると、蔵馬は続きを促した。

「蔵馬にとって、お母様が大切であるように…私にとっては師範が大切…だった」

守るものが増えた、そういった時の蔵馬の表情が忘れられない。
きっと、今ならば自分も彼のように笑えると思う。
そこまで考えて、紅は苦笑するように口角を持ち上げた。

「弱点を持つなと教えられて生きてきて…あなたと出逢った。

蔵馬も暁斗も大切で、弱みになるとわかっていても手放せないと思っていたの。

だから、これ以上は何も望まないでおこうって…そう思ってたんだけど…」

決意とは裏腹に、心は彼女が紅の中に入り込む事を許した。
彼女の弱みになる事を認め、その存在が少なからず精神に影響するほどに。

「あの人は私に優しくしてくれた。だから…私もあの人を大切だと思えた」
「わかっている。師範は本当の娘のように接していたから…」
「うん。大事にしていただいたの。瀕死の私を助けてここまで生かしてくれた」

俯く紅の表情は見えなかったが、それが逆によかったと思う。
きっと、自分は酷く情けない表情をしているだろうから。

「紅、もういいだろう」

これほどに彼女の身体は細かっただろうか。
抱きしめれば折れてしまいそうなほどに、腕の中の愛しい妻は儚い存在だった。
まるでその場に繋ぎ止めるかのように蔵馬は腕に力をこめる。

「師範が望んでいた。紅はあの人の望みを叶えたんだ」
「……望み…」
「ああ。あの人は自分の選んだ道を進めた。お前がそれ以上心を痛める必要は無いし、師範も望まない」

ゆっくりと顔を上げた紅の額にキスを落とし、それを徐々に下へとさげていく。
額から瞼を通り、頬を滑って口唇へと辿り着く。

「泣きたくないなら、泣く必要など無い。俺が忘れられる時間を与えてやる」

僅かに身を捩る彼女の耳元でそう囁くと、胸元の着衣を握っていた手が蔵馬の首へと回った。
そして、彼女から掠めるような口付けが蔵馬へと届けられる。

「蔵馬…」

数ミリの距離で紡がれた言葉に誘われるように再び唇を重ね合わせる。
思考とは無縁の時間に沈む為に、それ以上言葉など必要なかった。













波間を漂うような脳を覚醒へと導けば、すでに見慣れてしまった黒髪が目に入ってくる。
即座に肉体が南野秀一へと戻っているのだと気づき、蔵馬は溜め息を落とした。
どうやら制限時間を越えてしまったらしい。

「…まぁ、今回は丁度よかったか…」

そう呟き、蔵馬は腕の中で瞼を閉ざす紅を見つめる。
恐らく彼女が求めていたのは秀一ではなく妖狐蔵馬だっただろう。
どちらも蔵馬だと認めてくれているが、やはり長年連れ添ったのはあの姿なのだ。
決勝戦前の貴重な時間ではあったが、彼女の為に使えたなら自身としては納得出来る。

「…あなたに嫉妬しそうですよ、幻海師範…」

今まで、これほど紅の安定を崩せた人物は居ない。
彼女の中の幻海の存在の大きさは、それだけで理解するには十分だ。
自分にとっての母親が、紅にとっての彼女だったのだろう。
だが…殺されそうなら守ればいいものの、幻海は己から死を享受してしまった。
それだけに見送ってしまった自分を責める紅。

「…蔵、馬…?」
「目が覚めた?」

落ち着いたらしい紅はすでに佐倉の姿ではない。
佐倉の時よりも少しばかり幼い、けれども十分に端正な顔が蔵馬を見上げる。

「…ごめんね、大切な時間を…」
「別に構わないよ。俺にとって紅以上に大切なものはないから」

そう言って目元に唇を当てれば、紅はくすぐったそうに小さく笑い声を上げた。
その反応は彼女が元気を取り戻した証でもある。

「それにしても、暁斗が飛んできた時には流石に驚いたな…」
「やっぱりあの子が呼びに行ってくれたのね」

多分そうだと思っていたけれど、と紅は答えた。
彼の腕の中にいるために自身の方へと流れてくる黒髪を指で絡めながら笑う。

「…暁斗には可哀想な事をしたわ」
「さっきの状況では暁斗の手には余るよ」

紅の笑顔を戻せたのは自分だからだ、暗にそう言った蔵馬に紅は頷く。
大切な子であることに変わりはないが、やはり心の奥深くまで立ち入る事を許せるのは蔵馬一人なのだ。
母親としては子供にそう言った面を見せられない、と言うことも関係しているだろうが。

「紅の様子がおかしいと気づいて俺に知らせただけでも十分だ」
「そう…なのかしら」
「それに、暁斗はちゃんとわかっていた」

自分では駄目なのだと彼はそう言ったのだ。
紅の求めるものを理解し、自身の力量も弁えた息子を誇らしく思う。
普段は生意気極まりないが、今回ばかりは褒めてあげなければならないだろう。

――随分口悪く自分を呼んでいたことは、水に流すとして。



日が暮れてから部屋に戻ってきた暁斗。
彼を迎えたのはまだ慣れない両親の仲間でもなく、自分の父親でもなく…
ありがとう、と笑顔を浮かべる大好きな母親だった。

「母さん!俺、もっと頼れるようになるからね!そのうち父さんを負かすくらいに強くなるから!」
「…ほぉ…それは頼もしいね」
「…………………」
「……蔵馬、いじめないの。暁斗も…これくらいで私の背中に隠れているようではまだまだね」

06.03.22