悠久に馳せる想い
悠希の金の毛並みに額を預けていたのは僅かな時間だった。
すでに心身の高ぶりが抑えられたのか、佐倉の姿から紅の姿へとその身体を戻している。
いつも通りに子犬サイズとなった悠希を肩に乗せて彼女は廊下を歩き出した。
「待たせた?」
歓声に掻き消されることなく背後から届いた声に、蔵馬は身体ごと彼女を振り返る。
そして彼女の問いかけに否であることを示すかのように首を振った。
「丁度鴉の試合が終わったところだ」
「鴉…?」
その名を持つ人物に思い当たらないのか、紅は少しばかり眉を顰める。
彼女の反応に気づいた蔵馬がリング上を顎で指した。
今しがたそこを降り立ったばかりの黒衣の妖怪が、まるで図ったかのようにこちらを見上げる。
彼を視界に捉えるなり、紅は目に見えてその表情に嫌悪を露にした。
「紅?」
「あいつ、船の上で会ったわ」
酷く嫌そうに語るその口調から、彼に対する想いは火を見るよりも明らかだった。
基本は無関心である紅は妖怪だからなどという理由で嫌うことはない。
元々自分には関係ないと高をくくっているのだから、嫌うと言う感情すら無意味だと思っている。
そんな彼女がここまで嫌う人物に、蔵馬は興味を引かれると同時に眉間を寄せた。
「何かされた?」
「………蔵馬、次の試合」
答えることを放棄したと言うよりは、長くなるから後に回したという印象を受ける。
別に話を聞くのが数分遅れても大した問題ではないだろうと、蔵馬は再び試合の様子に目を向けた。
「そう言えば…あの男の試合はどうだった?」
「…あぁ、鴉か。奇妙な技を持っているみたいだな」
「………からくりはわからなかったのね」
「流石に妖力の戻らない秀一の目では見極められなかった」
自身の力が完全に戻らないことに憤りを感じているのか、蔵馬は少しばかり表情を硬くそう言った。
そんな彼を横目で見つつ、紅は口を開く。
「そのうちに戻るわ。裏浦島のおかげで切欠は出来ている筈だから」
「そうである事を祈るよ。この身体では紅の隣に立つこともままならない」
彼は佐倉としての妖力を取り戻した事を言っているのだろう。
明らかに劣っているとわかる自身に苛立ちを感じているのかもしれない。
そんな彼に、紅は柔らかい笑みを浮かべて「大丈夫」と告げた。
自分の言葉は、何よりも彼を安心させるものだと、自惚れでなく確信している。
そして彼女の考えは寸分狂うことなく彼の表情を和らげた。
『戸愚呂チーム完全勝利で決勝進出!!』
マイクを通したアナウンスが会場内に響き渡る。
観客は皆それを当然のことだと受け入れていた。
確かに戸愚呂チームは彼自身だけではなくメンバーも驚くほどの強者が揃っている。
紅ですら先程の試合にはその表情を硬くした。
「…戻ろう、蔵馬」
じっと考えるように黙り込み、一向にその身体を動かす素振りを見せない蔵馬に紅が声をかける。
すでに観客の半分ほどが会場を後にして出入り口に列を成していた。
「………すまない」
「気にしないで。考えることは無駄じゃないわ」
自身の思考の波に飲まれていた事に謝罪の言葉を述べる彼に、紅はその首を振って答える。
それ以上彼が気に病む必要はないとばかりに彼女は歩き出した。
蔵馬が普通に歩いても追いついて来られる程度にかなり速度を落として。
そうして並んで会場を後にすると、彼らは息の詰まりそうな廊下を進んだ。
窓のない廊下はそれだけで不快感を与えるには十分だ。
「……………蔵馬」
ほんの数分ほど歩いた頃、蔵馬を邪魔せぬようにと口を閉ざしていた紅が彼を呼ぶ。
だが、蔵馬の方も気づいていたらしい。
数メートルをおいて対峙する二人の存在に。
先程までリングの上で見ていた人物の登場に、蔵馬と紅はその身体に緊張を走らせた。
「観戦者はお前だけか…………自信たっぷりだな」
皮肉めいた言葉から会話を始めたのは上下の黒衣に身を包んだ鴉。
目に見えて紅が表情を歪める。
彼女の様子を気に掛けながらも蔵馬は「そうでもないさ」と返した。
「そう緊張するな、なにもしない。お前達4人が死ぬのは2日後だ」
そして鴉は雑談でもしているかのように口調やその表情を変えずに続けた。
「ひとりは今日死ぬ。だれかはじきにわかる」
その言葉に紅がその身を硬く強張らせた。
先程の幻海との遣り取りが鮮明に蘇る。
「元気で過ごすんだよ」
覚悟を決めた者の最期の言葉がわからないほど、紅は幼くはなかった。
紅の一瞬の隙を埋めるかのように、鴉の隣で沈黙していた武威がその拳を壁へと叩きつける。
彼女らの緊張した意識はそちらを警戒した。
その刹那の間に、鴉がその場から消える。
「…動きを追えた事は褒めておこう」
「寧ろ耳障りよ」
蔵馬の背後で鴉が彼の肩を通り、その首に両手を伸ばしている。
注意を払ったあの一瞬に彼は蔵馬の背後へと回ったらしい。
そして、そんな鴉の首元には妖気で作り出したナイフが当てられていた。
ナイフを持つ紅はそれだけで射殺せそうなほどの視線を鴉へと向ける。
蔵馬の振り払うような動きと共に彼は再び距離を取った。
「そんなに睨まなくても今はなにもしない」
「…あなたを信用する要素は皆無ね」
「なるほど。かなり嫌われたらしいな、私は」
喉で笑うその行動さえも彼女の嫌悪を掻き立てるだけだ。
何もしていないとはいえ蔵馬を挑発したその態度は、彼を敵と認識させるには十分すぎる。
「妖狐蔵馬が盗み出した最高の宝…そう謳われているのを知っているか?」
「生憎、噂話には興味がない」
「それほどまでにお前を執着させる妖狐蔵馬には酷く興味があるな」
噂を知らないわけではなかった。
魔界で生き延びていくために勢力を伸ばしていた盗賊団に所属していたのだ。
噂とは常日頃からの縁だったといっても過言ではないだろう。
「是非とも決勝戦でその姿を見せてもらいたいものだ」
そう言って鴉は蔵馬へと視線を移動させる。
挑発と取れる言葉は果たして彼にどの程度意味を成しただろうか。
緊張から頬を汗が伝うのを感じながら蔵馬は鴉に視線を返す。
「2日後を楽しみにしている…」
あれから蔵馬に向けての言葉を吐いた後、鴉は武威と共に去っていった。
それを見送った蔵馬の表情に、紅は何も言えることはないと悟る。
実力差を肌で感じ取ってしまい立ちすくむ彼の隣で紅は沈黙を貫く。
「…紅」
不意に、彼はその名を呼ぶ。
紅は彼に視線を返すことでその答えとした。
「少し頭を冷やしてくるよ」
「…わかったわ」
付いていくとは言わなかった。
恐らく、弱りきっている自分の精神を見せたくはないだろうと判断してのことだ。
弱っている時こそ支えたいとは思うが、それは彼が心の奥でそう望んでいる時だけにしようと決めている。
自分のエゴを押し付けることだけはしたくはないから。
「…行ってらっしゃい、蔵馬。………待ってるから」
彼は自分で活路を見出す。そんな確信の元、紅は笑みと共に彼を見送った。
「あぁ、行ってくる」
いつもよりは硬いながらも笑みを返す彼に、その確信は深まった。
06.03.08