悠久に馳せる想い
桑原vs怨爺の試合は僅か数分だった。
死々若丸戦でどこかへ飛ばされた彼だが、中々幸運の持ち主らしく無事帰還を果たす。
サイコロの目に従い、彼はリング上にて怨爺と対峙した。
結果、死々若丸の時同様どこかへ飛ばされてしまったのだが。
次いで幻海がリングへと上がるが、彼女は早々に怨爺の姿が変装である事を暴露する。
彼女の声により本来の姿を見せた怨爺こと鈴木なのだが…。
「うわぁ…中身もそうだけど、外見がこれ以上ないくらいに弱くなったね。
これなら、まださっきの老人の格好の方がマシだったんじゃないの?」
暁斗の声はとまる事なく紡がれる。
毒舌と言うほどではないかもしれないが、何とも本心に忠実な唇である。
死々若丸との試合が終わったからと言う事で結界を解いていた紅は苦笑を浮かべた。
「その辺で黙っておきなさい」
「だって、母さん。アイツ口ほどにもないよ?」
「…大人しく黙っていられないなら黙らせるわよ」
いくらかトーンの下がった声。
それに誘われるように彼女らを包む空気まで冷たくなったような錯覚を起こす。
ゾクリと背筋を這う何かに、暁斗は小さく「…はい」と答えた。
口達者とは言え、彼が紅の子である事に変わりはないし、彼女が彼の母親である事に変わりはない。
普段は温厚に微笑んでいる彼女なだけに、怒らせると父親である蔵馬よりも恐いと言う事くらいはわかっている。
蔵馬は一気にしゅんと耳と尾を垂らした暁斗にクスクスと笑った。
「母さんを怒らせると恐いね、暁斗」
「………うん」
過去に身を以って理解しているだけに、こればかりは否定出来ない暁斗だった。
幻海の挑発に乗った鈴木はその身の筋肉を膨れ上がらせる。
彼は爆肉鋼体と言っていたが、実際は見掛け倒しだと言うのが紅たちの率直な感想だ。
「まるで風船みたいな筋肉…」
「暁斗?」
「…はい」
懲りていないのか、本心に忠実すぎるのか。
暁斗の耳が紅の声によって垂れ下がる。
その肩を落とした格好と言えば紅からすれば可愛らしい以外の何物でもない。
注意したばかりなのでそれを口に出す事はないが。
「蔵馬も何とか言ったら?」
「別に俺が言う必要はないんじゃないかな?全部紅が代弁してくれているし」
「蔵馬が言ってくれた方が、暁斗は怯えずにすむわ」
つまりは怯えさせていると言う自覚はあるのか。
蔵馬と暁斗の心の声が重なる。
ふと視線を絡めた父子は、お互いの何とも形容しがたい表情を見つめた。
考えている事は同じらしい。
「…父さんだと別の意味で怖いから嫌だ」
色々と言葉を悩んだのだが…結局出てきたのはこんな答えだった。
蔵馬にしてもそれは理解しているらしく、彼がその返事を咎める事はない。
いい加減に試合に集中したらどうだと飛影の心の声も空しく、三人は雑談に花を咲かせていた。
幻海を心配していないと言う信頼の表れだと言えば、少しは綺麗に聞こえるだろうか。
「紅、ちょっといいかい?」
試合は浦飯チームの勝利で終わる。
只管眠る幽助を部屋に残し、幻海は廊下を進んでいた。
そして、丁度部屋に悠希を迎えに戻ろうとしていた紅と出逢う。
幻海の真剣な声に紅は考える間もなく頷いた。
軽い休憩所のようになった場所で、二人は距離をあけて長椅子に腰掛ける。
紅は彼女が何かを言うまで待っているつもりだった。
沈黙は長く続くかと思われたが、意外にも幻海は早くに口を開く。
「お前とはもう十数年の付き合いになるね」
「…ええ、そうですね。瀕死の私を拾ってくれて以来ですから…」
「正直、あの頃のまま警戒心を解かないようならどうしようかと思っていたよ」
思い出すようにクスクスと笑い、幻海はそう言った。
確かに手負いの状態だった紅は酷く情緒不安定だった、と自分でもわかっている。
「探していた相手も、息子も見つかって…お前も変われた。人間の事も少しは好きになれたかい?」
「…今ここでそれを聞くんですか?」
人間である幽助たちに手を貸し、人間である幻海と話している今ここで。
紅はそんな意味を篭めて問い返す。
彼女は幻海の言葉から、彼女が今から何をしようとしているのかを悟った。
「感謝しています。あなたと出逢えた事、あなたの教えを請うことが出来た事」
長椅子から立ち上がり、紅は深々とその腰を折った。
孤高の九尾と言われる程に、九尾の狐は気高い精神を持つ。
相手に頭を下げるなどまずありえないことなのだ。
しかし、逆に言えばそれを出来る相手と言うのは尊敬に値する人物と言う事でもある。
それを理解しているのか、幻海は嬉しそうに微笑んだ。
「これを持って行っていただけますか?」
そう言って紅は着衣から絳華石を取り出す。
幻海は何も言わずに頷き、紅の手からそれを受け取った。
「元気で過ごすんだよ」
「…はい。師範も…ご武運を」
言葉を悩んだようだったが、紅は結局その言葉を紡ぐ。
そして、去っていく幻海の背が見えなくなるまでその場に佇んだ。
「“好きになれたか”…なんて…聞くまでもありませんよ…」
好きでなければ、その背を見送らなければならない事をこれほど悔やんだりはしない。
その手を額へと押し当て、紅は俯いた。
「出来るなら、どうかご無事で…」
叶わないこととわかっていても、そう望まずには居られなかった。
「佐倉様…」
不意に、声が耳に届いた。
紅は顔を上げる事なく僅かに肩を震わせる。
悠希は控えめな声の後、トンッと床を蹴って彼女の肩へと下りた。
「どうしたの…?」
「佐倉様の心の揺れを感じて、参じました。師範は…行ってしまわれたのですね」
「ええ」
震えそうになる声を叱咤して、紅は顔を上げた。
涙は流していない。
在るのは哀しみに染まる金の眼だった。
「失うとわかっていて、どうして私は止められないのだろうな…」
ざわりと亜麻色の髪が揺れ、瞬く間にその姿を金へと変貌させていく。
感情の高まりから、紅から佐倉へと姿が変わった。
それに伴い、悠希は彼女の肩を下りる。
その直後、悠希の身体は成獣よりも一回りほど大きな狐の大きさまで膨れ上がった。
「止められる事など望んでいません。師範も、我々も」
「だが、止めるべきだったのかもしれない」
その進路に身を滑らせて、この力を以って。
そうすれば救えるものもあったかもしれないのに。
「志半ばにそれを絶たれる事ほど悔やまれるものはありません。あなたの判断は間違っていない」
「…そう…だな。そう思いたい」
紅はふっと哀しげに微笑んだ。
そしていくらか大きくなった悠希の首を、その熱を確かめるように抱きしめる。
紅の妖力に比例して、悠希も同じく力を得る。
紅として抑えていた間には子犬程度だったが、力を取り戻した今では本来の成獣の大きさまで戻ることが出来た。
悠希は何も言わずに紅の腕に抱かれている。
金の毛並みが窓から差し込む陽を反射させてキラキラと光っていた。
「私は昔も今も…何も変われて居ないと言う事はない…のだな?
「その名で呼ばれるのも久しぶりですね…。大丈夫、あなたは良い方向に変化しておられます」
「………ありがとう」
生まれた時から傍にいた存在は、確かに大きかった。
紅は悠希の身体を抱きしめながらその心の荒波が落ち着いてきたことを悟る。
だが、もう暫くこの蔵馬とは違うぬくもりを手放したくはなかった。
06.01.31