悠久に馳せる想い
紅は自分が本来の姿を晒してから、観客の視線が纏わりつくのを感じていた。
本来ならばリング上で繰り広げられる攻防に向けられるべき物。
それが自分に向いていると言う事は、少なからず彼女の中に苛立ちを蓄積していく。
「母さん…殺気が痛い」
「あぁ、ごめんね」
気づいていなかったのか、紅は暁斗の言葉に苦笑を浮かべた。
知らず知らずのうちに漏れ出すそれは妖気を押さえ込んでいたときとは比べ物にならない。
一度解放された妖気は、彼女が人間に戻ってもそのうちで業火のように渦巻いていた。
意図して抑えなければならない面倒さに、紅は静かに溜め息を漏らす。
「『自由』と『死々若丸』ね。吉と出るか凶と出るか…」
「吉に決まってるじゃん。父さんが出れば一瞬なんだし」
身を乗り出すようにして暁斗が紅に声をかける。
そんな彼を見上げ、紅は静かに首を振った。
「蔵馬の力は戻ってないわ。それに、死々若丸も弱くはないし」
そう言って、紅はふとリングの上にいる彼に視線を向ける。
丁度、勝ち誇ったような笑みを張り付け、彼…死々若丸もこちらを見ていた。
紅は面倒そうに眉を寄せる。
そんな彼女の耳にトンッと何かを蹴るような音が届き、次いで己の隣の地面を踏みしめる音が続く。
「…暁斗。勝手に下りてきちゃ駄目でしょう」
「別にいいの。ルールなんて俺には関係ないし!」
ニカッと笑って暁斗は頭の後ろで腕を組む。
そして、紅からリング上へと視線を移した。
とても友好的とはいえない視線を持って。
「…小さなナイト、と言うわけか」
クスクスと肩を揺らし、死々若丸は小さく呟いた。
「何だ、おめー。一人で笑って気色悪ぃな」
「…貴様の顔ほどではないな」
桑原の言葉に彼は嘲りの視線を向け、そして小さく紡ぐ。
その言葉は小さすぎて、桑原の元に届く事はない。
試合開始の声と共に、桑原は走り出した。
桑原がリング上に居たのは僅か数秒の事だった。
もちろん、彼が相手である死々若丸を倒したわけではない。
ただ、彼の姿…いや、存在自体が正しく消えたのだ。
「どこへ行ったかは俺もわからない」
死々若丸の言葉に紅はふとドーム内に視線を巡らせる。
突然の桑原消失を受けて、会場の視線は漸く彼女からリングへと引き渡されていた。
「母さん。あいつ、本当に消えたの…?」
隣で試合の様子を見ていた暁斗が、紅の腕を軽く引きながら問う。
少し考えた後、紅はゆっくりと頷いた。
「消えたって言うよりは移動したと言った方が正しいみたいだけど…」
「“移動”?」
「…暁斗は元々探知系が苦手だったからね。わからなくても無理はないわよ」
『桑原選手行方不明により、死々若丸選手の勝利で――す!』
マイク越しに高らかに宣言された死々若丸の勝ちに、会場全体が湧き上がる。
特に彼は容姿が美しいと言う事もあり、黄色い声も少なくはなかった。
次の目は『自由』そして…『覆面』。
試合開始当初から覆面の目が出た場合には飛影が変わりにリングに上がると言っていた。
それ故にとリングに手をかける飛影だが、それを止めたのは他でもない覆面。
遅れての登場にやや不満の声も上がったが、紅の一睨みによってすぐに鎮まった。
「幻海師範…」
「…大丈夫だよ。何も心配する事はない」
リングへ行こうとする覆面の背に、紅の声が掛かる。
しかし、返って来たのはそんな言葉だった。
それ以上何を言えるはずもなく、紅はお気をつけてとそれを見送る。
死々若丸と覆面の試合が始まって間もなく、覆面の顔を覆っていた布が彼の刀によって切り刻まれた。
その下に露になった顔に、観客及び死々若丸からの訴えが上がる。
以前の試合で見せた覆面とは別人だ、と。
確かに前回彼女の顔が露になった時は、覆面は若い女性だった。
今リングで死々若丸と対峙しているのは老いた女性。
どう考えてもこの数日で老けたと言うには無理があった。
「紅は知っていたのか?」
「もちろん。顔は隠せても、彼女本来の気や匂いを変えられるわけじゃないから」
いつの間に隣に居たのか、蔵馬が紅に質問した。
彼にそう答え、紅はリングから本部席へと視線を移動させる。
そこに現れた人物、戸愚呂はマイクを片手に口角を持ち上げ、説明する。
「そういうことでいいかねェ。幻海……!!」
『幻海』と言う名は、紅が知るよりも有名だったようだ。
ざわざわとドーム内が揺れる。
覆面が幻海である霊光波動拳の幻海であると知って喜んだのは死々若丸だった。
「目の前にいる人間はどう見てもただの老人だが…それが幻海とあらば、名前だけでも殺す価値がある!!」
凶悪な笑みを浮かべて死々若丸は己の刀の柄の部分を引き伸ばす。
別れたそこから見えてきたのは、何とも形容しがたいようなおどろおどろしいもの。
「うっわ…何てもん使う気だよ、あいつ…」
耳をギュッと押さえて眉を寄せる暁斗。
唸るような、呻くような…刀から発せられるその音に、暁斗の良すぎる聴覚が刺激されたようだ。
「…暁斗、こっちへおいで」
そう言って紅が手招きして暁斗を傍に呼ぶ。
躊躇う事なく駆け寄ってきた彼を見て、紅は己の周りに結界を張った。
薄い赤の発光が二人を包み終えると、会場を包もうとしていた音だけが遮断される。
「この結界の中にいれば、有害な物を遮ってくれるわ」
「…ありがとう」
「別に構わないわよ。自分の周りに張ってある結界を広げただけだから」
そう微笑んで紅はリングへと目を戻す。
「くらえ、老いぼれ!!爆吐髑触葬!!」
リングを包み込んだ砂塵が視界を奪う。
そんな中からその攻撃の余波とも言えるような髑髏が会場内へと飛散した。
進行方向に居た物を食らい、尚も髑髏が飛ぶ。
こちらに向かって来るそれを気にする事なく、紅は砂塵の中心を睨みつけていた。
バシュッと言う音と共に、結界に弾かれた髑髏が跡形もなく消え去る。
「見たところ幻海師範はかなり霊力を消耗している。勝算は?」
「…あの人を誰だと思ってるの、蔵馬?」
蔵馬の言葉に紅はふっと笑みを浮かべた。
その表情に焦りや心配などはない。
「私がひとときでも師とした人。あんな三下妖怪に負けるはずがないわ」
「え!?あの人、母さんの師匠なの!?」
飛び上がって驚いた暁斗に紅はクスクスと笑う。
「体術を少し、ね。あの人は本当に強い人よ」
「母さんが褒めるなんて珍しい…」
そんなに強いんだ…と暁斗は釣られるように幻海へと視線を向ける。
丁度、刀からの悲鳴が音の壁となって二人を包み込んだ所だった。
次第に密度の低くなっていくドーム内に反比例して、その入り口には観客らが逃げ惑う。
我先にと席を立つ妖怪で、出口は混みあっていた。
「覚悟すらない、愚者達」
酷く冷たい眼で、紅はそう紡いだ。
他人の『死』を楽しむ為の、そのリスクを覚悟せぬ者。
今逃げ惑う妖怪たちは正にそれだった。
「しょうがないよ。どの道自分では一匹も殺せないから、態々こんな辺鄙な所まで楽しみに来る暇人だし」
「暁斗…さすがにそれは言いすぎだよ」
「だってさ、本当の事でしょ?父さん」
紅の腕にしがみ付いたまま、暁斗は蔵馬を見上げて問いかける。
その迷いや遠慮など一切見られない眼に、蔵馬は苦笑を浮かべた。
自分とて思っていることだが、成長した理性が脳内に留めるだけの事。
純粋に言葉を吐き出すことの出来る暁斗を、どこか羨ましく思った。
「…そうだね」
そっと暁斗の頭を撫で、蔵馬は静かにそう言った。
そのすぐ後、幻海の霊光鏡反衝によって死々若丸の敗北が決定する。
裏御伽チームとの試合は最後の一人となった。
05.12.31