悠久に馳せる想い
「まさかこんな所で戻る事になるとは…。さすがに予想していなかったわね」
サラリと横に流れてきた髪を掻き揚げ、紅は肩を竦めてそう言った。
指の間を通るのは一度も絡む事のない金髪。
金色に輝くそれは長く、彼女の腰を過ぎて太腿の中腹までを覆っている。
苦笑に歪められた口唇は形の良さを保ったまま赤く熟れていた。
少しながらも高くなった視線でリングを絡め取る眼は黄金を嵌め込んだ様に美しく、そして鋭気に溢れている。
幼さを完全に取り払った端整な顔立ち。
不自然に煙に包まれたリングを見ることも忘れ、観客は彼女の姿に目を奪われる。
『こ、これは…驚きです…』
実況するに於いてマイクのスイッチを入れたのは、恐らく本能的な行動だろう。
小兎は眼下に立つ紅を見つめ、言葉数少なく唇を開く。
『私の言葉では語ることが出来ない程に、美麗な姿へと変貌を遂げたのは佐倉であります』
彼女からは紅の背中しか見えていないだろう。
しかし、己の息子へと視線を向けたその一瞬の姿は、はっきりと網膜に焼き付いていた。
「暁斗」
人間の時と同じ芯を持ちながらも独特の深さを備え持つ声。
より澄んだそれが暁斗の名を紡いだ。
「は、はい!」
紅に名を呼ばれ、ピンッと姿勢を正す暁斗。
やはり人間の時とは違い、彼女にはその背中からでも感じる何かがあった。
「蔵馬が戻ってるわ」
ただ一言そう言って、紅はふっと口角を持ち上げた。
本来の姿へと戻った今、煙に視力を奪われようとも、五感全てが彼の存在を感じ取っている。
数倍良くなった聴力がその声を聞き、今の様子を伝えていた。
「父さんが…?」
「感じないほど愚かではないでしょう?」
背中を観客席の壁へと預けるように凭れ、すらりと長い脚を組みなおす。
深い藍色の着衣は、紅の身体の線をより浮き立たせていた。
ふと、紅は今更ながらに仲間からの視線に気づく。
穴が開くほど無遠慮に見つめてくる眼と、珍しくも驚きに見開かれた眼。
説明しなければならないのか…とやや面倒そうに肩を竦める。
そして、腰に巻いた足首まで覆うような長い巻き布を手で軽く払い、紅は背中を壁から離した。
「…質問なら受け付けるわよ?」
そう言って口角を持ち上げてみれば、面白い程に桑原と飛影が反応を示す。
尤も、その妖艶な微笑みに魅せられたのは彼らだけではなかったが。
試合そっちのけで視線を集めていることに気づいた紅はやれやれと額に指を当てる。
リングに注目しろとは言わないが、戦っている彼ら以上に視線を集めるのはあまりいただけない。
「紅…なんだよな?」
「ええ、もちろん」
人間の時のように屈託のない笑顔とは呼べない。
しかし、ただ冷たいとは感じない笑みだった。
「…それが貴様の本来の姿か…」
「ご名答。正解ついでに差し上げるわ」
ヒュンッと紅の手から赤い絳華石が飛んでいく。
彼女自身がペンダントとしているそれではなく、持ち歩いていた残りだ。
顔面を狙って飛んできたそれをいとも簡単に片手で受け取る飛影。
それと同時に、握った手を中心として彼の身体を赤い光が駆け抜けた。
「!?」
「飛影!?」
一瞬彼の姿が消えたかと思えば、次に見えたのはかすり傷一つ残していない彼だった。
呆気に取られたのは桑原だけではなく、彼自身もだ。
「妖力が完全に戻ればこれくらい訳はないわ」
飛影の怪我を治してやったと言うよりは自身の妖力の高さを教える為の行動だったようだ。
紅はそれ以上彼らに構うこともなく、先程よりも近くなっていたリングへと視線を向ける。
飛影らと言葉を交わす間も、試合の様子は何一つ聞き逃してはいなかった。
久しぶりに楽しげな妖狐の声を耳にし、彼女は表情を穏やかに緩める。
その時、彼女の耳に何かが空を切る音とガラスが割れるような音が届いた。
「…終わり、か…」
「あ?何が…」
そんな桑原の声を最後まで紡がせる事なく、リング上が変化を見せる。
今まで中の様子を完全に隠していたそれが嘘のように引いていった。
ものの数秒で結界内の煙は腰から下辺りに溜まるもののみとなっている。
やや晴れてきているリング上に、相手チームの死々若丸を睨むように見つめている蔵馬の背中が見えた。
白魔装束に身を包み、背中に流れる髪は銀色。
髪と同じく銀に包まれた尾と耳の存在が、彼が妖狐であることを示していた。
「蔵馬…」
唇が動いただけに近いほど小さな声。
しかし、彼の耳がピクリと動き、そしてその身体が振り向いた。
視線が絡んだ瞬間、彼は軽く目を瞠り、そして紅は微笑を浮かべる。
だが、妖狐蔵馬と視線を交えたのは本当に一瞬の事だった。
「………時間切れ…?」
南野秀一へと戻った自身の身体を眺める蔵馬を見て、紅は少しだけ残念そうに声を発する。
それを聞きつけたのか、彼も同じく苦笑を浮かべてリングから下りた。
「お疲れ様」
「ああ。それはそうと…久しぶりだな、その姿を見るのは…」
上から下まで、とまではいかなくても蔵馬は紅の全身を映して頷く。
「蔵馬のおかげね」
「?」
「私の妖気を封印してたのは蔵馬のそれ。
今回無事封印が解けたのは、一瞬でも妖狐蔵馬の妖気を受ければ自然と解ける様に封印してあったから」
方法云々の説明を省き、紅は大まかに現状を告げた。
飛影や桑原は蔵馬がその事実を知らなかったことに僅かながら驚いていたようだ。
彼女の事ならまず蔵馬に聞け、と言う妙な考えが根付いているのだろう。
しかし、蔵馬がそれを知らないことも決して無理はなかった。
紅がその妖気を全て封印して人間へと姿を変えたのは彼と別れてから。
つまりは空白の部分、と言う事になる。
「…で、戻れるの?」
ふと、蔵馬は先程から脳内で疑問として浮かび上がっていたそれを声として発する。
南野秀一の姿では、彼女の隣に立つ事はあまり嬉しいものではない。
人間としての紅もその姿は秀麗と言うに値するが、如何せんまだ高校生。
年齢的な物が手伝って美人と呼ぶには僅かに抵抗が残る。
しかし今の彼女は違う。
きっと、彼女が本気になれば全てを魅了するのも不可能ではない。
もちろんそれを紅が実行に移すはずもないのだが、今でさえこのドーム内の妖怪の視線を一身に浴びている。
それを気にするほど繊細ではないが。
「………視線が痛いから戻る」
訂正。繊細でなくとも視線を集めるのは嫌らしい。
紅は胸元に光っている絳華石を握り締める。
そして集中するようにその鋭気に満ちた眼を閉ざした。
途端に絳華石を中心に、先程の飛影の時と似たような赤い光が彼女の全身へと走る。
通り過ぎた所から、蔵馬以外のメンバーには馴染み深い姿へと戻っていた。
観客席の方から落胆の声やら溜め息やらが聞こえる。
「………何か失礼ね…。こっちの姿がそんなに見るに耐えないって言うのかしら?」
む、と眉を寄せた紅は己の腕を組む。
そんな彼女を横目に、桑原や飛影といった彼女の元の姿に慣れていない面々がそっと安堵の息を漏らした。
あまりに整いすぎていると言うのも劣等感の塊になりすぎて疲れるものだ。
慣れているらしく平然と紅を宥めている蔵馬はさすがだと思う。
「いい加減に存在を忘れないで貰いたいな」
若干低くなった声が紅の耳に届く。
その声に振り向けば、表情を歪める死々若丸の姿が目に入った。
「…んー…あぁ、死々若丸?であってる?」
名前を忘れていたのか、紅は掲示板を一瞥してその名前を紡ぎ、さらに確認。
何とも他人には無頓着な性格だ。
「…ああ。そっちは佐倉だったか?それとも紅と呼ぶべきか?」
「是非とも前者で。まぁ、気に入れば後者で呼ぶことも認めないでもないわ」
今は拒否するけれど、と紅はさも当たり前のように答える。
それ以上は馴れ合うつもりは無いと言う意思表示なのか、紅はさっさと踵を返して暁斗の元へと戻って行った。
その背中を見送りながら死々若丸は持っていたサイコロを振る。
05.12.23