悠久に馳せる想い
目の前に立つ妖怪に、紅はただ目を見開いた。
少年の出で立ちを持つ妖怪の向こうに見えるイチガキと言う妖怪の目が楽しげに細められる。
しかし、そんな事は気にならない。
彼の姿が揺れ、一瞬のうちに距離をつめられた事にも気づいていた。
無意識に相手を攻撃しようと妖気を纏った手を上げるが、それを止めたのはほんの僅かな理性。
「紅っ!!」
慌てたような幽助と桑原の声。
それと同時に、紅は視界に己の血が舞うのを見た。
「佐倉!」
廊下を進んでいた紅はそんな名前に背中を呼びとめられた。
その名を呼ぶ人物と声とが一致して、彼女は盛大に溜め息を漏らす。
面倒そうに振り向けば、予想通りの人物が片手をあげていた。
「蔵馬。先に行っててくれる?」
「…大丈夫?」
「ええ」
安心させるように微笑み返せば、蔵馬は頷いて廊下を進んでいった。
その背を見送る事なく紅は振り向く。
「その名前で呼ばないで。この大会では特に」
「…悪かったな。それよりも、紅。試合まではまだ時間はあるな?」
コエンマはそう言って紅の答えを待つ。
彼女は壁にあった時計に目をやり、頷いた。
「聞くに値する話なのよね?」
「寧ろ、教えんかったら後で何をされるかわからん」
そう言って首を左右に振るコエンマに、紅は訝しげな視線を送る。
彼がこう言う仕草をする時には必ずと言っていいほどの確率で面倒ごとが持ち込まれていた。
もっとも、彼の呼び止めに応じてしまった時点で巻き込まれる事は必至なのだが。
自分にも関係のあることだと理解した紅は、聞く姿勢を作って彼の言葉を待つ。
「…先に言っておくが。この件に関して、ワシは一切手を出していないぞ」
「解ったから早く用を話して。試合の時間は迫ってるわ」
「………暁斗の事だ」
コエンマがそう言えば、紅の肩で目を閉じていた悠希がそれを開く。
驚いたように反応を示す悠希に首を傾げながらも、彼女は眉を寄せて彼を見やった。
「未確認情報だが、少年の妖怪が人間界に迷い込んだらしい」
「…少年なんていくらでもいるじゃない」
「黙って聞け。その妖怪は今イチガキと言うチームに入っている」
その言葉で気づいたのか、紅は口を噤んで足元に視線を落とした。
髪の間から垣間見えた彼女の表情。
「………その、妖怪の特徴は?」
つぅ…と白い頬を赤い筋が流れる。
手の甲にも同様の傷が入っていて、そこから赤い血が流れていた。
指を伝ったそれは静かに宙へと身を投げ出し、リングに落ちる頃には固体化してカランと乾いた音を立てる。
「…自分の血を流されたのは久しぶりね…」
苦笑を浮かべて頬に伝うそれを指で拭い、手の甲で僅かな痛みを訴えていた傷口をぺろりと舐めた。
傷の消えた甲には血の痕だけが残った。
そして、紅はゆっくりと口元を下げて相手を見る。
急にクリアになった聴覚に、背後から騒がしい声が入り込んできた。
「お、おいおいおいおいっ!一体どうしたんだよ!!」
「昨日みてぇに一気に片つけちまえよ!」
「って、浦飯!お前は寝てて見てなかっただろうが!!」
「…そういやそうだったな。でも、紅は強ぇんだろ?」
幽助の言葉に桑原が盛大なリアクションで肯定を示した。
なら問題なし!と笑う幽助に、紅は口元に苦笑いを戻す。
「まったく…。変な人たちね」
そう呟くと、紅は向かい合う彼に意識を戻す。
一瞬のうちに彼女との間合いを開いた彼の銀髪がサラリと揺れた。
その容姿から思い出すのはただ一人。
脳裏に過ぎった銀髪の妖狐を消すように一度首を振り、紅は彼に向かって口を開く。
「…暁斗。何でこんな所に居るの?」
知人であるかのように問いかける紅に、背後の彼らが動揺を見せる。
それを気にせずに紅は彼…暁斗を見つめ続けた。
「暁斗」
先程よりも強く、その名を紡ぐ。
彼の金色の眼は何も映していないように見えた。
「無駄だ!そやつはワシの最高傑作じゃ!」
「…どう言う事か、詳しく説明してもらいましょうか」
押し殺したような声で紅はイチガキを睨みつける。
暁斗から目を逸らした瞬間、彼の姿が消え去った事に気づいた。
己の首を狙って背後に移動した暁斗を横目に捕らえ、紅は身体を軽くそらして攻撃を避ける。
そして、体勢の崩れた彼の額へトンと指を触れさせた。
途端にピタリと動きを止めた暁斗に、イチガキが驚いたように声を発する。
「暁斗!!佐倉を攻撃せい!!その身体を肉片となるまで切り刻めっ!!!」
「動けるはずがないでしょう。彼の身体に結界を張った。さて、どう言う事かキチンと説明していただくわ」
何の警戒もしていないとばかりに動きを止めた暁斗に背を向け、紅はイチガキの方へと足を進める。
「…おい。今までになく紅が怒ってねぇか?」
「……あぁ。あの暁斗って奴、紅と何か関係あるんじゃねぇ?」
ゆっくり、しかし確実に近づいてくる紅に、怯えるようにイチガキは一歩後退する。
「な、何をそこまで怒ることがある!?お前とそやつは何も…!!」
「“関係ない”と?」
嘲笑うように紅はそう言って、前に落ちてきた髪を払う。
手に付いたままだった血が額に擦れて赤い筋を作った。
「私と暁斗の関係、か…。それも知らずに暁斗に手を出すなど…愚か極まりないわね」
「そいつが何だと言うのだ!!高々妖狐一匹お前の気にする事など…!!」
イチガキの言葉に幽助と桑原は目を見開いた。
そして同時に顔を見合わせ、口を開く。
「「妖、狐?」」
「人間界に迷い込んだ妖狐を一匹ワシの研究に使っただけじゃ!!」
慌てれば慌てる程に頼んでも居ない説明を繰り返す彼。
紅はリングのギリギリで足を止めると、冷酷な目をイチガキへと向ける。
「その妖狐が私の息子だとは考えなかったのか…。魔界を知らぬ愚か者」
「おい、悠希!!どう言う事だよ!?」
幽助が覆面の肩に乗っていた悠希をつまみ上げる。
悠希は不満げに唸ったが、だからと言って彼が止まるはずもない。
「…暁斗様は正真正銘佐倉様のご子息です。魔界では妖狐蔵馬様の名と共に有名な話ですよ」
わかったらさっさと下ろせ、とばかりに彼の手を引っ掻いて地面へと降り立つ悠希。
「恐らく背中のもので暁斗様を操っているのでしょうけれど…」
やれやれとため息と共にそう漏らす悠希。
落とした視線をイチガキの方へと向け、哀れみに似た目を見せた。
「蔵馬様はどうされました?」
「え?あぁ、それがわからねぇんだ。まさかあいつ等に限って逃げたって事はないと思うんだけどよ…」
「…困りましたね…」
「何が困ったんだよ!?」
「…あのイチガキと言う愚か者…死にますよ」
「言葉を失っている間にさっさと暁斗を解放しろ。その命、尽きる前に」
一瞬のうちに殺気立つ紅を前に、イチガキはドスンと腰を落とした。
震える足を叱咤した所で己の体重を支えて立ち上がるまでは至らない。
鋭い金眼を真っ向から受け、彼は正に蛇に睨まれた蛙だった。
「で、出来ぬ!!操血瘤を外す方法は死以外にない!!」
「…偽りは無いな」
「嘘じゃないぞ!!本当に殺す以外に方法はないのじゃっ!」
冷や汗を流しながらそう告げるイチガキに、紅は静かに溜め息を吐き出した。
そして右手をスッと持ち上げる。
その行動にすら竦み上がるイチガキを横目に、彼女はその指をパチンと鳴らした。
音と共に消え去ったのは暁斗を纏っていた結界。
自由になった彼は迷う事なく紅へと走り出した。
「こ、殺せ!!暁斗!!佐倉を殺せっ!!」
イチガキの声に応えるように暁斗は爪の長い手を彼女へと突き出す。
彼の手が紅を貫く瞬間、彼女は暁斗の表情を見た。
苦しげに歪められたそれと、最後の抵抗のように急所を外した攻撃。
彼の自我が残っている事に、紅は微笑んだ。
05.11.24