悠久に馳せる想い
「――――…っ」
瞼越しの光に、紅は図らずも表情を歪める。
不意に、沈んでいた思考が浮かび上がるような感覚を受け、それに任せるようにゆっくりと視界を開く。
入り込んできたのは見慣れない部屋模様。
そして、馴染みある人物だった。
「…幻海師範…」
「身体はどうだい」
肌触りの良いシーツから身体を起こす紅に、幻海は窓際のソファーから立ち上がって声を掛ける。
彼女の言葉を受け、紅は目を数回瞬かせた。
「身体?」
「…自分が倒れた事も忘れたのかい?」
「倒れた…」
確認のようにそう呟き、記憶の中に沈んだその部分を引き上げる。
あの時自分は―――…
幽助の試合が終わった。
リングから降りて来る彼を迎えるように、紅は己の結界の領域を広げる。
幽助の相手だった酎もギリギリその結界内に納まるくらいに。
「佐倉…」
鈴駒がそれに気づき、少し驚いたように紅の方へと顔を向ける。
そんな彼の視線に僅かながら笑みを浮かべる紅。
―――あなた達は嫌いじゃないわ。
唇をそう動かし、彼女はすぐに顔を逸らしてしまった。
結界内に納まっている者の傷口が、仄かな赤い光を纏う。
「紅、無理はしない方がいい」
「……………」
蔵馬が控えめにそう言うが、紅は集中しているのかそれに気づかない。
彼の声も届かないと言うのは本当に珍しい。
そんな驚きを隠し、彼は紅を見つめた。
すでに自分の頬に刻まれていた十字の傷は癒えている。
気づいているかどうかは微妙な所だが、桑原の傷もほぼ完治しているだろう。
後から結界に入ったにも拘らず、幽助の怪我も徐々に治ってきているのがわかる。
彼らを一瞥して、蔵馬はふと気づいた。
今まで人を癒すことなど皆無だった紅が、これほど強力な結界をこれほどの範囲で張り続けるのは初めての事。
つまり―――
「…紅っ!!」
傾いた彼女の身体を受け止め、その名を紡ぐ。
己の名が呼ばれるのをどこか遠くに感じながら、紅はその意識を深く沈めた。
「彼らはどうしていますか?」
「お前の治癒のおかげで大した怪我を残した奴はいないね。ただ…飛影は…」
そう言って言葉を濁した幻海。
しかし、紅はわかっていたと頷く。
「彼の右腕は暫く使い物にならないでしょうね。私も一応治癒する努力はしてみますけど…」
どうせ聞きはしないだろうと言う事はわかっている。
彼女の反応を見て、幻海は口元に緩やかな笑みを刻んだ。
「変わったねぇ、紅。あたしがお前を拾った時には、誰かを気にかけるなんて思いもしなかったよ」
行く場所がないならば、と屋敷に残る事を提案した。
紅は屋敷に残る事に対してある条件を出す。
もちろん、幻海がそれを受け入れたから彼女は幻海の屋敷に居候しているのだ。
「…私も、変わるとは思いませんでした」
「人間変われば変わるもんだね。いい傾向じゃないか」
そう言って笑う幻海に、紅は苦笑を浮かべた。
幻海は紅が己の変化に戸惑っている事を知っているのだろう。
受け入れるべきなのか、否か。
「…悠希…私の使い魔はどこに?」
いつもならば命令無しに己の傍を離れない悠希が見えないことに、紅は今更ながら気づく。
その姿を探しながら幻海に尋ねた。
「悠希なら蔵馬と一緒に次の対戦相手を見に行ってるよ。初めは嫌だの一点張りだったけどね」
「…じゃあ、蔵馬が連れて行ったんですね」
紅の返事に「よくわかったね」と幻海が頷く。
「悠希には、私が居ない時には蔵馬に従うように言ってあるわ。あの子はそれを破らない」
使い魔としてではなく、悠希は本心から紅を慕っている。
それゆえ、彼女の望みを否定する事はない。
遠くても少し集中するだけで感じる事の出来る悠希の気配に、紅は小さく笑みを浮かべた。
「時に、幻海師範。急に若返りましたね」
先程の名残など全く見せない口調で紅は彼女を見た。
彼女の言うような『若返った』では済まされないくらいに幻海は変わっていた。
幽助たちと共に居た時にはそれを隠すように覆面をしていたが、今はそれを解いている。
「これがあたしの最盛期の頃さ」
「なるほど。老いと言うものは恐ろしいですね」
身体に刻まれた皺は無く、その顔立ちは誰もが美しいと言えるものだった。
ある程度まで成長すれば老いる事のない紅にとって、それは馴染みの無いもの。
「…確かに恐ろしい。だが、誰も老いる事にだけは逆らえないさ」
何故か自嘲めいた笑みを浮かべる幻海に、紅は疑問符を浮かべる。
彼女が何を決意してこの大会に参加したのかはわからないが、恐らくはそれが関係しているのだろうと思った。
その時、部屋のドアをノックする音が響く。
幻海は覆面に手を伸ばし、キチンと顔が見えないように覆い込むと部屋の錠を解いた。
「ありがとう。っと…目を覚ましたんだな」
「佐倉様!」
ベッドの上で身体を起こしている紅を見るなり飛び込んでくる悠希。
その後を追って、蔵馬も部屋の中へと入ってきた。
彼らとは入れ替わりに幻海が部屋を出て行こうとする。
その背中に蔵馬が声をかけた。
「紅を見ててくれてありがとう。助かりました」
彼の言葉に、幻海は気にするなと言う風に首を振って扉を閉めた。
暫く閉ざされたそれを見つめていた紅が、膝の上に乗る悠希を見下ろす。
「次の相手の試合を見てきたんでしょう?」
「はい。蔵馬様が佐倉様の為にもと仰ったので」
「ありがとう。じゃあ、見せてくれる?」
そう問いかければ悠希は「喜んで」と尾を揺らす。
紅はその返事を聞くと悠希の額に己のそれを寄せた。
ふわりと額を掠める柔らかい毛並み。
集中するように目を閉ざせば、瞼の奥に悠希が見てきたものが映った。
「…ありがとう」
紅がそんな声を上げるまでは、さほど長い時間ではなかった。
悠希が離れるのを見て、それまで邪魔をしないように口を噤んでいた蔵馬がベッドの端に腰を下ろす。
「体調は?」
「少し寝たから回復したわ。心配させてごめんなさい」
「…まだちょっと顔色が悪いな」
頬にかかった亜麻色の髪を横へと退ければ、白い肌が目に入った。
普段陶磁器のように白い肌は、青白いと言ってもおかしくはない。
「…力の使い方がよくわからないの。今までは、癒す対象は一人だったから」
苦笑に似た笑みを零し、紅は悠希の毛を梳いた。
揺れる金の毛並みが窓からの光を美しく反射させる。
「イチガキチームの余興試合には妖怪が出るらしい。終わっていたからそれは見れなかったけど」
「らしいわね。六遊怪の時ほど簡単じゃないと思うわ」
「ああ。何にせよ、しっかり疲れを取らないと危険だよ。ほら、横になって」
そう言って蔵馬は紅の額を軽く押す。
掛けられた力に逆らわなかった紅は篭った音と共にシーツに沈む。
彼女の脇に悠希が腰を降ろし、その身体を丸め込んだ。
部屋の中に置いてあった椅子をベッドの脇まで運んでくると、蔵馬はそこに腰を下ろす。
「部屋に戻ってもいいわよ?」
「いや…ここに居るよ」
見上げる紅の視線に笑みを返し、その髪を梳いてはシーツへと落す。
紅は彼の指の動きに心地よさそうに目を閉ざした。
沈み行く思考を感じ、紅は己の身体が未だ休息を求めていると気づく。
思った以上に疲れているな、と心中で苦笑を漏らし、誘われるままに眠りへと落ちた。
05.11.18