悠久に馳せる想い
十字傷に指を滑らせれば、その端整な顔が痛みに歪む。
「治療してもらえば?」
「…この試合が終わってからでいいよ」
先程からこの会話はこれで三度目。
蔵馬の頬に十字傷の痕でも残ったらどうしてくれるんだ、と心中に怒りを燻らせる。
尤も、その怒りを向けるべき相手はすでにこの世には存在しないのだが。
彼女の心の変化など、まるで手に取るようにわかっている蔵馬。
自分としては傷痕が残ろうが残るまいがどうでもいいのだが…やはりそこは男女の違いなのだろう。
理由がどうであれ、自身を心配する彼女の気持ちが嬉しくないはずはなかった。
「…蔵馬?」
ふわりと自分の頭の上に降りてきた蔵馬の手に、紅は傾げられない首を少しだけ傾けて声を上げる。
ぽんぽんと二・三度彼女の頭を撫で、彼は名残惜しそうにそれを下ろした。
「俺は大丈夫だよ。それに…これが終われば紅が治してくれるだろ?」
見透かしたように紅の内に秘めておいた心配を言い当てる蔵馬。
驚いたように目を見開くも、彼女はすぐに笑みを灯して微笑んだ。
そしてそれ以上は何も語らず、お互い示し合わせていたかのようにリングへと視線を向ける。
ジリジリと肌を焦がすような妖気がドーム内を包んだ。
無意識のうちに張られた結界が紅への一切の干渉を防ぐ。
額に汗を浮かべたり畏怖の表情を貼り付ける観客を眺め、彼女はふと呆れた様な笑みを零す。
「愚か者の極みね。実力もないのに興味本位で見に来るからだわ」
「…何でそんなに平気そうなんだよ…?」
近くに居た桑原が怪訝な表情を浮かべて紅に問いかける。
飛影の対戦相手の妖気に中てられているらしい。
「…結界があるから。何なら広げましょうか?」
そう言って彼女は桑原の返事を聞く前に、その結界領域を広げる。
少なくとも味方全員を包み込める程にそれを広げ終えると、紅は視線を戻した。
初めて彼女の結界に入った桑原は自身の手や身体を見下ろしながら呟く。
「な、何か生ぬるい空気が身体に纏わり付いてる感じだな…」
「生ぬるいって…不快なら出てもらっても構わないわよ」
「いや、不快なわけじゃねぇけどよ…。何つーか…怪我した部分が妙に熱いような…」
自分では見ることの出来ない頬を撫でながら彼は言った。
その言葉に、紅に代わって蔵馬が答える。
「紅が結界内の治癒力を高めてるんだ。恐らく一時間もこの中で過ごせば、その程度なら自然完治するよ」
そう答える蔵馬自身も、頬の傷が仄かに熱を帯びているのを感じていた。
結界は絳華石へ紅の妖気を送り込めば自然とその能力を纏う様になる。
しかし、結界内の治癒力上昇は紅自身の能力。
範囲は結界内に限られる上に、相性が合わなければ治癒出来ない所を無理にその効力の枠を広げるのだ。
それ故、紅自身の疲労が大きいのである。
その事を理解している蔵馬は結界の中心に居る紅に視線を向けた。
「大丈夫?」
「…少なくとも、この六遊怪戦が終わるまでは平気」
口元に笑みを浮かべてそう答える紅。
彼女がこう言う表情を見せるのは、何を言っても聞かない時だ。
不意に、紅の肩で蹲っていた悠希が首を持ち上げた。
それを不思議に思ったが、身体を貫かれた飛影が一瞬にして炎に包まれる。
紅はそれを目の当たりにして、悠希の反応はこれが原因だったのだろうと判断した。
しかし、悠希は紅の肩から動かないままに、視線を観客席へと向けている。
通路へと繋がる出口に居た妖怪が静かに紅を見下ろしている事に気づいた。
「…暁斗様…?」
ふと呟いた悠希の言葉は、起き上がった飛影が纏う黒い炎の唸りに掻き消される。
ゾクリと背筋が粟立つ魔界の炎に、悠希の視線も一時飛影の方へと動いた。
自分と飛影の明らかな力量の差を見せ付けられ、相手は正常な言語機能を失う。
飛影の右腕に絡みついたそれはまるで龍の様な形を造形していった。
『こ……これは危険すぎます!!実況としては不本意ではありますが一時避難させていただきます
―――!!』
そう言って実況していた小兎が急いでリングから下りる。
「炎殺黒龍波!!」
飛影の声に反応するようにして、腕に絡み付いていたそれがはっきりと龍の形を模して相手に迫る。
一瞬の事だった。
「…あの向きに居たらさすがの結界も危なかったかもしれないわね」
壁に残る黒ずんだ焼け跡と影を見ながら紅が呟いた。
飛影の攻撃の延長線上に居たなら、この結界があったとしても無傷では済まなかったかもしれない。
何より、彼がわざわざ自分達の居る方向を避けてくれるとは思えない。
運がよかった、と言うところだろうか。
不意に、悠希がハッと我に返って観客席を見上げた。
「悠希?どうしたの?」
先程の場所に、あの妖怪の姿はない。
紅の問いかけに首を振り、悠希は「何もありません」と答えた。
はっきりとわからない以上、彼女に言う必要はないと判断しての事。
「…悠希、少し蔵馬の所に行って貰ってもいいかしら?」
リングから飛影が降りてくるのを見た紅は悠希に向かってそう言った。
悠希は一瞬何故かわからなかったようだが、彼女自身が飛影の治癒に集中する為だと気づく。
二つ返事で悠希は蔵馬の肩へと移っていった。
「蔵馬様。少しよろしいですか?」
「ん?どうかした?」
声を潜める悠希に、蔵馬も同じく少しだけ声のトーンを落す。
悠希が紅を気にしている事から、話の内容が彼女には聞かせたくない物だと悟った。
「…暁斗様は今魔界に?」
「暁斗?あいつなら当然魔界のはずだけど…どうした?」
何故この場でその名前が出てくるのか。
蔵馬はそんな疑問を声に乗せる。
彼の返事に、悠希はその長い鼻を頷くように揺らし、沈黙した。
「………ならば、私の勘違いですね」
「?」
一人で納得している様子の悠希を見ながら蔵馬は首を傾げる。
何が勘違いなのか、と問いかけても悠希は首を振るだけだった。
悠希は自身の中に留めておくつもりらしい。
それならば聞く必要もないか、と蔵馬は少し離れた所で飛影を呼び止めた紅の方へと視線を向けた。
「飛影。この結界から出ないで」
「…必要ない」
己の怪我の変化を感じ取ったのか、飛影はすぐにそう答えた。
彼の返事に紅は眉を寄せる。
「…確かに腹部のそれは必要ないでしょうけど…」
そう言って彼女が視線を固定させたのは腹部を貫かれたそれではなく、ポケットに押し込んだままの右腕。
紅の視線の先に気づいた飛影はチッと短く舌打ちした。
「あまり変わらないとは思うけど、酷くなるよりはマシでしょ」
「お前に心配される必要なんかない」
「他のメンバーの命も懸かってるんだから心配くらいはさせてもらうわ。大人しくなさい」
飛影の睨みなど全く応えもせず、最後はやや命令的な言葉を返す紅。
彼自身、自分の右腕の状態がわからないほど愚かではない。
そして何より、この結界内に入ってから先ほどまでの腕の痛みが和らいでいるのは否めなかった。
彼女の言う事を聞くのは癪以外の何物でもなかったが、飛影は静かにその場に留まった。
不満げな表情は変わらないながらも、彼が動こうとしない事実に紅は安堵の息を漏らす。
そんな自分の無意識の行動に、紅は自嘲の笑みを零した。
「随分甘くなったものね、私も」
軽い疲労感に襲われながらこうして仲間と呼ぶべき彼らの治癒に努めている自分。
過去の自身から見れば酷く滑稽だった。
しかし、その半面でこんな生活も悪くないと思う。
「…誰の影響かしらね」
そう言いながらも、紅の視線は寝息を止めた幽助へと向けられていた。
05.11.10