悠久に馳せる想い
一試合目を黒星で始めた浦飯チーム。
次鋒としてリングに上がったのは蔵馬だ。
「…蔵馬」
リングへと上がる直前、紅が彼を呼んだ。
彼は躊躇う事なく足を止めて彼女を振り向く。
紅はにこりと笑みを浮かべて、言った。
「怪我しないように」
自分の試合の前に言われた言葉をそのまま口にする紅。
一瞬目を見開いた蔵馬は、ふと笑みを浮かべた。
「ああ」
そうして彼は背を向けてリングへと上がる。
「どう見る?」
驚いた事に、試合が始まって声を掛けてきたのは飛影だった。
紅は暫し目を瞬かせた後、試合に視線を戻す。
「もちろん。蔵馬の圧勝でしょう?」
足元に擦り寄ってきた悠希を抱き上げ、紅は自信に満ちた声でそう言った。
彼があのような雑魚に負けるなど…それこそ、天地がひっくり返るくらいにありえない。
「ふ…当然だな」
「ただ…。気になるのはあの言葉だけど」
ポツリと漏らした彼女の声を聞き取っていたが、飛影はそれ以上何も問わずに視線を逸らす。
恐らく気にする必要はない、と思う。
『あんた人間と同居してるんだってなァ』
どこで知ったのかは知らないが…杞憂であればそれでいい。
そんな事を考えながら、紅は肩の悠希の毛を梳いた。
攻撃を見切っている蔵馬が明らかに優勢だった。
「たいした使い手でもなさそうだ。今楽にしてやるよ」
一瞬のうちに背後を取った蔵馬はそう言った。
その時になって彼が始めて攻撃を仕掛けようとする。
しかし ―――
「あんたの母親の命はあずかってるぜ、南野秀一くん」
蔵馬の表情に驚愕が浮かぶ。
呂屠の攻撃を避けるように彼は一旦距離を取る。
だが、その頬には一筋の傷が入った。
細く切れたそこから鮮血が頬を流れる。
「くくくく見えるか?」
そう言って呂屠が取り出したのはスイッチだった。
勝ち誇ったように笑みを浮かべながら紡がれた説明に、蔵馬は構えを解く。
スイッチが押されれば呂屠の使い魔が蔵馬の母親を食い殺す、そのように仕組まれているらしい。
彼らからはリング半分以上の距離があるにも拘らず、紅はそれを聞き取った。
その形の良い眉を寄せ、口を開く。
「悠希」
彼女の肩に乗っていた悠希の耳がピクリと反応する。
紅がそれ以上何かを言う事はなかったが、悠希は彼女の命令をその眼差しから悟った。
「すぐに戻ります」
悠希はそう言って姿を消す。
まるで煙に撒かれたように消え去った悠希を、誰かが見咎める事はなかった。
「馬鹿な事を…」
組んだ腕を解く事なく紅は試合を見つめた。
一方的に殴られる事に甘んじている蔵馬が何を待っているのか…。
その真意に気づける脳はないらしく、呂屠は楽しげに彼を甚振った。
「お、おい…紅?」
「何?」
「怒って…んのか?」
試合に集中していたはずの桑原が控えめに紅に声をかけてきた。
心なしか、その表情は硬く…そして顔色は悪い。
「別に」
ふいっと視線を逸らす紅だが、彼女のまとう空気は次第に殺気を増幅させている。
それの矛先は一人であるにも拘らず、零れ出るそれは正常な呼吸を奪う。
桑原は冷や汗を流しながらも大人しく引き下がった。
これ以上食い付けば我が身が危険にさらされる、そう判断しての事だ。
無抵抗のままに殴られ、蹴られる蔵馬。
しかし、彼の目は鋭さを宿したままだ。
それが不愉快だったのか、呂屠は不満げに顔を歪めながら彼の頬に刃を立てる。
先程のものに交差するような形で、もう一筋傷が入った。
「オレは屈辱に満ちたツラを見て楽しみたいんだ。わかったか?」
ぎぎ…と刃が上へと皮膚を裂いていくが、蔵馬は睨むような目付きを変える事はない。
業を煮やした呂屠が勢いよく刃を切り上げた。
新に加わった傷が目まで達していなかったのは幸いと言えるだろうか。
未だ自分の優位が揺るいでいないと信じている呂屠は機嫌を損ねたとスイッチに指を乗せる。
「まず土下座してオレのクツをなめな」
自分の足を持ち上げながら彼はそう言った。
蔵馬が何も言わないのは、抵抗出来ないからと思っているらしい。
「いやとは言えねェよなァ、優しい秀一くんはよォォ。育ての母親の命がかかってるからなァ。
へへへ、いい話だぜ。笑っちまわァ。…それとも…」
そこで言葉を止め、呂屠はリングの外へと視線を向ける。
その視界に紅の姿を映すと、楽しげに目を細めて言った。
「あの女でもオレに寄越すか?人間って言うのが気に食わねぇが…見た目は最高だから言う事ねぇ」
「断る」
へへ、と口元を持ち上げる呂屠に、蔵馬はそう言い切った。
初め彼が何を言ったのかわからなかったらしく、呂屠は間の抜けた声を上げる。
「もういい。押せよ」
先程までに付いた埃を払うように服を叩きながら蔵馬は何でもないようにそう言った。
呂屠は勝ち誇ったようにいやらしい笑い声をあげ、スイッチに手を掛ける。
「押せ」
蔵馬の声に後押しされるように、彼はそのスイッチを押すべく指に力を篭めた。
その時になって、呂屠は漸く気づく。
「……ゆ、指が…体が動かねェ」
己の身体がすでに侵食されきっていた事に。
「うんざりだが、今まであきるほど言ったセリフをくり返そう」
彼との距離をつめると蔵馬はその手からスイッチを取った。
「最も危険な賭けなんだよ………キミが一番楽で、てっとり早いと思っている手段は最も危険な…」
動かない身体ではゆっくりと紡がれる言葉さえも恐怖を助長する。
呂屠は汗を流しながらも必死に許しを請うように声を上げた。
「紅はお前には勿体無い女だよ」
口角を持ち上げそう言った彼の表情は冷たい。
蔵馬は一旦彼に背を向け、首だけを振り向ける。
「死ね」
彼の言葉に反応するように、呂屠の身体を蝕んでいたそれが一斉に身体を突き破った。
シマネキ草と呼ばれる魔界の植物。
それは呂屠の体外へと出てくると美しく咲き乱れる。
「皮肉だね。悪党の血の方がきれいな花がさく」
そんな言葉を残し、蔵馬はリングを降りていった。
「安心しろ。使い魔はご主人様が死んだと同時に逃げ去った」
リングから下りてきた蔵馬を迎えたのは、飛影の言葉だった。
彼は目を閉ざしたまま、続ける。
「だが…紅の使い魔にやられたな」
飛影の言葉が終わった頃、紅の肩に悠希が戻ってくる。
悠希は彼女の頬に擦り寄った。
「お帰りなさい、悠希」
「ただ今戻りました。任は滞りなく」
「そう。ありがとう」
肩から自分の腕の中へと抱き上げ、紅は微笑んだ。
そんな彼女に近づいてく蔵馬。
「いつの間に悠希を?」
「あの馬鹿が楽しそうにスイッチの説明を始めた頃かしらね」
蔵馬は彼女が抱く悠希を受け取り、その小さな頭を撫でた。
「ありがとう。助かったよ」
「勿体無いお言葉です。蔵馬様」
安心した表情を浮かべた蔵馬に、紅は自身の判断が間違っていなかったと悟る。
電光掲示板には蔵馬の勝利がはっきりと示されていた。
05.10.29