悠久に馳せる想い

『ここからでは中の様子がどうなっているのか全く見当もつきません!

の攻撃をまともに受けた佐倉は無事なのでしょうか!?』

いつの間にかリングから避難していた小兎がマイクを片手にそう実況する。
やがてリングを覆うそれが晴れた時 ―――
そこには赤い色が飛散していた。








「今はこんな姿だけどね…?」

細く、短剣ほどの長さに整えられた妖気のナイフを片手に、紅は口を開いた。
彼女の手にあるそれと同じ物でリングへと縫いつけられているのは
深々と貫かれたそこから溢れ出す鮮血が石を染め上げる。

「…あ、んた…何者!?」
「あなたの様な弱小妖怪よりは遥かに名を馳せてるわ。比べられる事すら不愉快な程に」

カツン、と靴音が響く。
ドーム内が不気味な程に静まり返っている。
まるで極寒の地に放り込まれたような紅の妖気に包まれている所為だ。

「別に殺戮を好むわけじゃない。ただ…舐められるのが嫌いなだけ」

一歩、また一歩。
ゆったりと距離を縮める彼女の口元には笑みが刻まれている。

『た、立っているのは佐倉です…。その表情に』

そこまで実況して、小兎の口は塞がれた。
他でもない蔵馬の手によって。

「あまり口を出さない方がいい………これ以上は俺でも止められるかどうか…」

彼の眼は真剣そのものだった。
やがて口を塞がれていた手が退けられても、小兎はそのまま沈黙を保つ。

「わざと妖気を抑えるのがどれ位面倒な事か…教えて欲しい?」

ゾクリと背中が粟立つ様な声。
怯えを見せたは肩を縫い付けられる痛みを誤魔化しながら、小刀を投げた。
恐怖に背中を押されたと言っても過言ではない。
不可侵の領域に。

的を外さず、紅の心臓を目指したそれ。
しかし、彼女の身体を貫くには至らなかった。
パンッと弾き飛ばしたのは赤い結界はその身体を包むように一瞬だけ姿を現し、刹那で消え去る。
カランと乾いた音が響き、小刀がリングへと転がる。
それを見下ろす紅の目は酷く冷めていた。

「…まだ足掻くつもり、か。ならば仕様がないな」

ふと紅の口元の笑みの質が変わった。
先程までの落ち着いた笑みではなく、嘲笑に似たそれ。
のすぐ脇へと移動した彼女は真上から見下ろす。

「要らない命なら、今すぐ私が消し去ってやろう」

紅の手の中で赤みを増した妖気のナイフが鋭く尖る。
味方の危機に黙っていられなくなった鈴駒がの名を呼んだが、その声は紅には届かない。

「まずいな…」

蔵馬が眉を寄せて呟く。
それを聞き取った桑原だが、言葉の意味を問えるほど彼に余裕はなかった。
まるで金縛りにでもあっているかのように、動けない。
そんな桑原の横に立つ蔵馬の心中は穏やかではなかった。

幽助たちと出逢った事で、自分だけでなく彼女も少しずつ変わって来ている。
決して悪い変化ではなかった。
しかし、それは今まさに崩れようとしている。
他でもない…紅自身のうちにある佐倉だった頃の性格によって。

ここで相手を殺させてはいけないと、彼は思った。
無音の世界で紅はただ彼女を見下ろし、そして最期の瞬間を迎えさせようと手を上げた。

「紅!!」











「…審判」
『は、はいっ!?な、なんでしょう!!』
「カウント」

くいっと顎でを指し、紅は小兎に言葉を向ける。
畏怖の表情を浮かべて彼女を見上げる視線を一瞥することすらなく、彼女は小兎の答えを待つ。

『し、失礼いたしました!カウントを取ります!!』

1から始まって順に増えていく数字。
カツンと靴底を鳴らしながら紅はリングの中心部から脇へと歩を進める。
すでに抗うことすらせず、は呼吸を浅くそれを聞いていた。
一瞬のうちに自らの敗北を悟る程に、自分とは格が違う。
手が届くと思っていた自惚れさえも烏滸がましい程に。
1つも急所へと与えられていないはずの攻撃が、指先の動きさえも制していた。

『10!佐倉の勝利です!』

マイク越しの少しだけ割れた小兎の声が、紅の勝利を宣言した。
緊張していた空気が一気に解放され、ドーム内には安堵の溜め息が溢れる。
紅は小兎の声を聞き届けると、自分の手にあった妖気のナイフを握りつぶすように消し去る。
それと同時に、の四肢を貫いていたそれらも消えた。
ドクッと溢れ出た血に彼女が眉を寄せる。
だが縫い付けていたそれらがなくなった事で、全神経を治療へと向けることが出来るようになった。
傷口は間もなく塞がるだろう。

すでに背を向けている紅はリングの端まで進んでいた。
トンッと軽い足取りでそこから降り立つ。
無言のままに歩いてくる紅に、蔵馬を初めとする浦飯チームは黙っていた。
彼女は蔵馬の前まで来ると表情を隠していた前髪を掻き揚げる。
その顔にはいつもの優しい笑みが浮かべられていた。

「止めてくれてありがとう」

そう言った紅に浦飯チームも、ドームの観客と同じく安堵の息を漏らすのだった。











桑原と鈴駒の試合が始まった。
それをリングの外から見守りながら、蔵馬が口を開く。

「…それにしても…よく俺の声が聞こえたな」

もう無理かと思った、と言う彼。
そんな彼に、紅は少しだけ困ったように微笑んだ。

「蔵馬の声だけよ。………どうも駄目ね…こう言う雰囲気の場所では…」

こうして妖怪に囲まれていると、嫌でも昔を思い出す。
自然と警戒する様に高まる佐倉の妖気が、身体の内部よりじわじわと浸透してくるのだ。
別の人間の物であるはずはないが…今とはあまりにも違いすぎている。

「やっぱり、紅には来て欲しくなかったな」
「今更よ。巻き込まれた以上、生き残るのでは駄目。勝たなければ…意味がないわ」

このまま桑原優勢で試合が終わるかと思われた。
しかし、そう思っていたのは紅を除く者たち。
鈴駒と言葉を交わした彼女だからこそ、彼が一筋縄ではいかないと言う事を理解していた。
思わぬ反撃に桑原の身体は簡単に吹き飛ぶ。

「…凄いわね。あの身長差でいとも簡単に吹き飛ばすなんて…」
「紅、ここは感心する所じゃなくて彼を心配する所だと思うよ」

感心したように声を発する紅の隣で蔵馬は苦笑いを零す。
彼女らしいと言えばそれまでなのだが。

「心配しなきゃいけないほど彼は弱くないはずだけど?」
「…まぁ、確かに」

躊躇いがちにも、彼の修行に付き合っていた蔵馬は頷いた。
そんな彼の反応に喉で笑うと、紅は試合の様子に視線を固定させる。
だが、はっきり言って彼らの動きなど視界に入り込んでくるだけだった。


魔界での仲間意識は人間界でのそれとは異なっていた。
生きるか死ぬかの瀬戸際で、互いに認め合った者のみを傍に置き、利益の為に各々を動かす。
もしそこで命を落すなら、それは自身の責任。
捨て置くことに対する躊躇いなど皆無に等しかった。

「変わったなぁ、私も」

まさか、赤の他人の命を奪う事に躊躇するなんて。
平和で…微温湯のようなこの世界に浸りすぎたのかもしれない。

『俺は…いい変化だと思うよ』

先程の言葉を呟いた私の脳裏に、そんな言葉が甦る。
そのセリフを吐いてくれた本人は自分の隣で試合の方に没頭していた。
彼の横顔は相変わらず綺麗だな…などと関係ないことを考えてしまう。

「“いい変化”か…」

隣の彼には聞こえないように。
口の中だけに止めた声が零れる事はなかった。

まだ少し…。
受け入れるには時間が必要なのかもしれない。

05.10.19