悠久に馳せる想い
窓際に設置したベッドに座り、紅は静かに本を読んでいた。
すでに空は夕闇へと姿を変えて、徐々に月がその高度を上げていく頃。
不意に、彼女の傍らで伏せていた悠希が首を持ち上げる。
それとほぼ同時に紅も窓の方を一瞥した。
「佐倉様…」
「…招かれざる客のようね」
パタンと本を閉じ、ベッドから足を下ろす。
素足のまま窓まで近づき、ゆっくりとした動作でそれを開いていく。
吹き込んでくる夜風と共に黒い塊が部屋の中に侵入した。
床に転がり込んだそれに向かって悠希が低く唸る。
「ようこそ。誰の使い魔かしら?」
再びベッドに腰掛けると、紅は長い足を優雅に組んだ。
その表情には学校で見せるような柔らかさはない。
子鬼にも似たそれは、直接脳に響くキィキィと耳障りな声で話し始めた。
『暗黒武術会にエントリーされた。貴様ならばこの意味がわかるだろう』
「……断る」
『ほぉ…。もし断れば貴様を殺すと言ってもか』
「…………どうぞお好きに?」
挑発するように手を持ち上げ、紅は笑う。
頭に血が上りそうになる使い魔だが、自らの使命を思い出したのかぐっとその場に留まる。
『貴様を殺すのは我の役目ではない。戸愚呂様だ』
「………」
『しかし、いくら戸愚呂様とて貴様を殺す事は出来んかもしれんな。その場合…死ぬのは貴様ではなく…』
言葉を濁すが、使い魔の言いたい事は彼女に伝わる。
彼女は睨みつけるでもなく目を細めた。
『あの男もゲスト側としてエントリーされた。どの道貴様らに逃げ道などないのだ』
「…さっさと説明して私の前から消えろ」
『ケケケ…。武術会開催は二ヵ月後。貴様は ――――』
長くも短くもない説明を終え、使い魔は去った。
『精々余生を楽しむ事だな』と言う皮肉めいた言葉を残して。
その窓に背を向け、紅は悠希に言う。
「…始末してきなさい」
「承知しました」
悠希はそのまま開いていた窓をすり抜け、闇に溶け込む。
「精々残り数秒の余生を楽しむ事ね」
そう言って口角を持ち上げると、紅は自室を出て幻海の元へと向かう。
「――― と言う事だそうです」
幻海の前に座り、紅は今しがた使い魔から聞いた事を簡略に話す。
彼女が用意した茶を啜っていた幻海は静かにそれを置く。
「今まであんたが目をつけられなかった事自体が奇跡だからねぇ」
「まぁ、確かにそうですね」
「半世紀前にはあたしだって参加させられたもんさ。今となっては思い出話だね」
そういい終えると、彼女はまた茶を啜る。
テーブルの上に腕を乗せると、その上に顎を置いて目を閉じる紅。
「面倒なものですね、本当に」
「ああ、まったく。ところで…今回のゲストは誰なんだい?」
「…師範も知ってる人たちですね。浦飯幽助、桑原和真、飛影…そして蔵馬。以上四名です」
使い魔の口から出た名前は彼女にとっても覚えのあるものばかりだった。
恐らく、すでに彼らの元にも使い魔が向かっただろう。
是非を問うような質問を繰り出された所で、彼らに答えられるのはただ一方のみ。
「巻き込まれるほど面倒な事はないですね…」
そう呟き、紅も自分用にと用意したお茶を啜るのだった。
コール音と共に、紅の心臓が脈打つ。
相手が出るまでの時間と言うのが長く感じられるのは何故だろうか。
『紅?』
数回の電子音の後に続くのは、声すらも愛おしいと思える彼のそれ。
電話口でのありきたりな『もしもし』とか『○○です』なんて言葉がない辺りが彼らしいと思える。
自然と緩む頬を自制し、紅は携帯の向こうにいる彼に返事を返した。
「うん。寝てた?」
『いや、まだ起きてたけど…どうかした?』
「え?」
『声。いつもと違うよ。顔にも出てる……多分ね』
顔は見えていないにも関わらず、思わず鏡を覗き込んでしまうのは人間の性だろうか。
そんな反応すらも蔵馬にとっては手に取るようにわかる事だったらしい。
クスクスと電話口から彼の笑い声が紅の耳に届く。
『無理に聞くつもりはないよ。気分晴れた?』
「…少し」
『それはよかった。俺を一番に頼ってくれたって事が嬉しいから』
飾り気のない言葉ほど、自然に心の奥に浸透する。
今度は自制する事なく頬を緩ませた。
「蔵馬の声って安心するわね」
『……………』
「?…蔵馬?」
沈黙する彼に、通話が切れていないことを確認する。
耳から少し離した時点で、再び彼の声が届いた。
『ごめん。昔の事を思い出してたよ』
「昔って…妖狐の頃?」
『そう。その時にも声が安心するって言ってたな』
彼の言葉に紅も思い出すように目を閉じた。
確かに、彼の声を褒めるような言葉は幾度となく発した覚えがある。
「今も昔も…私を和ませるのは蔵馬だけね」
『はは。こればっかりは誰にも譲れない』
「昔そのセリフの後に早速取られそうになってたよね」
『…暁斗?』
「そうそう。その名を聞くのも久しぶり…元気にしてるかしら」
蔵馬の声で紡がれた名前には酷く懐かしさを感じさせる。
それでも、二人にとっては忘れられるはずのない名前だった。
『……逢いたい?』
「…そうね。無理だって事はわかってるけど……置いてきてしまったから」
『じゃあ、いつか逢いに行こう』
「魔界へのデートのお誘い?凄く遠出だけど…お受けするわ」
他愛ない日常を求めるのは、果たして欲張りなのだろうか。
そんな事を考えながら、紅は蔵馬の声に耳を傾けた。
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05.08.29