悠久に馳せる想い
紅は窮地に立たされていた。
身体に目立った外傷もなく、強敵と対峙しているわけでもない。
風の鳴る音が耳に届く。
紅はまた一歩、壁へと寄った。
「…紅、階段の中にいてもいいよ?」
「………大丈夫」
「しっかし意外な弱点だなぁ」
「幽助」
僅かにからかいを含ませた声を発する幽助。
しかし、蔵馬の鋭い睨みにすぐに口を噤んだ。
一向は白虎の雄叫びを頼りに廊下を急いだ。
やがて螺旋階段を抜けた後、その姿を目の当たりにする。
紅は彼らの最後尾についていた。
蔵馬と同じく、四聖獣の知識はある程度持っている為に今更その姿に驚くこともない。
「まずいな…」
「…蔵馬?」
先に階段を抜けた蔵馬がポツリと呟く。
その声を拾った紅が彼を呼んだ。
彼女の耳に、白虎の声が届く。
ご機嫌ななめと言う蔵馬の憶測は外れていなかったようだ。
紅もその姿を視界に捉えるべく、最期の一段を登りきる。
「――――っ!!」
声もなく紅は階段の壁まで下がった。
その顔色は悪い。
恐らく白虎の声も、桑原たちのやり取りも彼女の耳には届いていないだろう。
一度は白虎の方に注意を向けていた蔵馬も、紅を心配してその隣に付いた。
「かなり高いけど…大丈夫?」
蔵馬の声と風を切る恐ろしい音だけが紅の耳にしっかりと入る。
白虎の待っていた場所―――そこは高所恐怖症の紅にとってこれ以上ないほど嫌な場所だった。
桑原の戦いをゆっくりと見ている余裕は、今の紅にはなかった。
心配している蔵馬を安心させたいとは思うのだが、精神的にギリギリの位置に立たされている紅には無理だ。
せめて邪魔にはならないようにと、階段の壁にもたれかかるようにして大人しくしている。
「…おい」
「………何よ」
「何故そこまで怯える?」
「…………………」
飛影の言葉に紅は静かに目を閉ざす。
彼女の高所恐怖症は生まれつきの物ではない。
その事情を知っているのは蔵馬と、そして今はこの場にいない使い魔悠希だけだ。
沈黙を貫く紅を見て、飛影はそれ以上何も言わなかった。
「(学校の屋上なんてマシな方か…。少なくとも、この音は聞こえない。)」
そんな事を考えながら、紅は自嘲の笑みを零す。
この低い風音が聞こえる高さはよくない。
発作のような感覚に襲われた紅は、胸の辺りの着衣を握り締めて息を吐いた。
音が耳に届くだけで、呼吸が僅かに弾んでしまう。
――結局、過去の事を引き摺っているのか。
忘れたと思っていたそれは、確かな束縛を持って紅を蝕んでいた。
「おおおお!!」
不意に桑原の声がこちらを向いた。
それに伴って紅が視線を持ち上げると、細い通路を走ってくる彼の姿が目に入る。
その後ろには彼を追うように迫り来る白虎の分身妖獣達。
くるりと方向転換した桑原の霊の剣が縦一列に並んでいた妖獣を四匹同時に貫く。
問題はそこからだった。
「その程度で死ぬほどヤワではないぞ!!」
白虎の言葉通り、妖獣はその勢いを止める事なく桑原に接近する。
それを引き連れたまま、彼は再び走り出したのだ。
ここを退かないと巻き込まれるな、と思いながら紅はゆっくり身体を動かそうとする。
しかし、そこで浮遊感を感じた。
「く、蔵馬?」
横抱きにするのではなく、彼女の太腿を抱くようにして蔵馬は移動した。
紅は彼の肩に手を乗せて大人しく抱かれている。
今までは内側に居た紅だが、巻き込まれない為に否応無しに外側へと移動しなければならなかった。
蔵馬が一歩進むに連れて、彼の服を掴む紅の手に力が篭る。
それに気づいていながらも彼は足を止めなかった。
代わりに彼女の耳元で小さく呟く。
「…大丈夫。もう何も失わないよ」
僅かに目を見開いて見下ろせば、蔵馬は紅が好きだと言った笑みを浮かべていた。
彼の笑顔に、紅は先程よりも少しだけ解れた笑みを返す。
しかし、それは長くは続かなかった。
桑原の捨て身の攻撃は白虎を破ったかのように思われた。
だが、白虎は立ち上がる。
地獄の部屋へ案内すると言い残し、彼はその場から姿を消す。
後を追うように、五人は一斉に動き出した。
この場所から離れることが出来る、と言う事実に紅は僅かに緊張を緩める。
先程までと同じように最後尾についた紅が一歩踏み出した。
――ガコン――
「!」
音に気づいた他の四人が振り向いた。
「紅!?」
蔵馬が彼女の名を呼び、手を伸ばした時には時すでに遅し。
紅の足元は完全に消え去り、奈落に続くような穴が口を開いていた。
重力に逆らわず、彼女の身体は闇へと消える。
「紅!!!」
彼女がいた場所に駆け寄る蔵馬。
しかし、彼がその穴を覗こうとした時にはすでにそれは口を塞いでいた。
まるで自らの役目は果たしたとばかりに。
「お、おい。紅はどうしたんだよ?」
「俺にもわかんねーよ…」
狼狽する幽助と桑原とは逆に、飛影と蔵馬は冷静だった。
先程まで穴の開いていた一枚の石床を見下ろした飛影が呟く。
「…朱雀に気に入られたな」
「………あぁ」
苦虫を噛み潰したような表情で蔵馬が頷く。
そんな彼らを見て、幽助が口を開いた。
「紅は何処に連れて行かれたんだよ!?」
「朱雀の所と思って間違いはない」
彼の質問に答えたのは飛影。
その答えに幽助と桑原は驚愕の表情を浮かべる。
「…急ごう」
蔵馬の静かな言葉に、三人は無言で頷く。
何かを言える状態ではなかった。
蔵馬の周囲を囲む空気がピリッと張り詰めている。
髪に隠れて見えなかったその眼には、背筋が逆立つほどの静かな怒が見え隠れしていた。
05.07.27