悠久に馳せる想い
耳に残る愛しい彼の声ではない。
けれども、その声はあの人の物だった。
「待ってくれ!」
背後から聞こえてきた声に、紅は思わず振り返る。
その拍子に亜麻色の髪がふわりと風に乗った。
赤みを帯びた黒髪を揺らし、肩で息をする男子の姿が紅の視界に映る。
言葉もなく、紅は振り向いたままの状態で立ち尽くす。
やがて呼吸が整ったのか、彼は顔を上げて紅を見つめた。
「これは…君の物?」
そう言って彼はポケットから絳華石を取り出す。
それを紅に見えるように手の平に載せ、彼女の返事を待った。
暫くの間それを見つめて沈黙していた紅だったが、やがて僅かな笑みを浮かべて頷く。
「ええ。返してくれ、なんて言わないから好きにして」
「………君は普通の人間じゃないな」
「あなたもでしょう?蔵馬」
首を傾けながら微笑めば、蔵馬は表情を硬くする。
本来の名前を知る人物を警戒しているのだと言う事が紅にも理解できた。
「…場所を変えよう。病院からあまり離れたくない。屋上でいいか?」
彼の言葉に、紅は静かに頷いた。
「先に一つ聞きたいんだけど…」
屋上へ来るなり、蔵馬がそう切り出した。
紅の沈黙を肯定と受け取り、彼は言葉を続ける。
「その狐は?」
蔵馬は紅の足元で尾を揺らす悠希を指して言った。
「…悠希が見えるのね。そっか…それだけ妖力が回復したって言う証拠か…」
紅は壁にもたれながら嬉しそうに笑う。
どこか懐かしい彼女の微笑みに、無意識のうちに抱き寄せそうになる自分に気づいた。
その感情を誤魔化すように首を振り、蔵馬はフェンスの方まで歩く。
屋上の広さの分だけ開いた二人の距離。
「俺は…君を知っている気がする」
蔵馬が口を開いた。
その言葉に紅は一瞬動きを止め、次に困ったように笑む。
「思い出す必要はないわ。だって…あなたに私は必要ないもの」
「……………」
「お母さん、元気になるわよ。安心して」
紅は一つの決心をしていた。
何も語らず、自分に関する記憶も戻さず…ただ口を閉ざし、彼の元を去るという決心。
新しい生を得て、彼は新しい人生を生きていた。
すでに人間に対して愛情を抱き、抱かれている。
そんな彼の生活を壊す事はしたくない。
生きていると言う事実だけで幸せだと思えるから。
「もう会う事もないと思うわ。……元気でね、蔵馬」
紅は笑いながらそう言った。
蔵馬の目が大きく見開かれる。
すぐに背を向けた紅は、蔵馬の表情を見ていない。
『元気でね、蔵馬』
彼女が最後に紡いだ言葉は、再会を誓う物ではなかった。
まるで別れる事を知っていたかのように、彼女はそう笑う。
霊界の追跡者に追われていた時の記憶。
それを思い出す度に、必ず脳裏を掠める女性の姿。
金色に光る長い髪を靡かせ、彼女は口を開く。
『別れて逃げましょう。二人で居たら捕らえてくれと言っているようなものだわ』
真っ直ぐに先を見つめて彼女は言う。
二人で共に居れば、お互いがお互いを庇う。
俺自身、それでは生き残れないと思った。
だからこそ、彼女の提案に頷いたんだ。
『持って行って。必ずあなたを守るから』
そう言って彼女の差し出す絳華石を受け取り、俺達はお互いに背を向ける。
『また、後で』
『…ええ。元気でね、蔵馬』
彼女の顔を見れば離れられない。
だからそのまま振り向かずに地面を蹴った。
離れていく彼女の香や妖気に後ろ髪を引かれながらも、追跡者から逃れる為に走る。
瀕死の状態で人間界へと下りた俺は、彼女を覚えていなかった。
ただ、これだけは覚えている。
顔も名も霞がかる彼女を―――――何よりも愛していた。
このまま失いたくない、ただその想いが蔵馬の脳裏を駆ける。
同時に、彼はドアノブへと手をかけた紅を後ろから抱きしめていた。
「蔵…馬…?」
「行かないでくれ」
紅の口から戸惑いに溢れる声が零れ落ちた。
そんな彼女を抱きしめる腕の力を強め、蔵馬は言う。
「もう君を手放したくはない」
「………覚えてるの…?」
「……いや…」
否定の言葉に、紅は硬くしていた身を解いて彼を見る。
腕の中で身体を反転させた彼女の額に、蔵馬は静かに唇を落とした。
「たった今…思い出したよ、紅」
優しい笑みを浮かべる蔵馬に、紅の中で焦がれていた想いが溢れる。
それは涙と言う名の形となって零れ落ちた。
「何で思い出すのよ…っ。折角…私が何も言わずに別れようと思ってたのに…」
「それは困るな…」
蔵馬はクスクスと笑う。
頬を伝う雫を指で掬い、その瞼にキスを落す。
「他の男の所に行かれたら…俺が困る」
悪戯めいた笑みと共に告げられる言葉に、紅は一瞬言葉を失った。
こんな笑みを向けられれば、あれほど思いつめた自分が馬鹿らしく思えてくる。
「他の人の所になんて行くわけないじゃない…」
言い終わるや否や、紅は蔵馬の胸に擦り寄るようにその身を寄せた。
そのままの姿勢で彼に問いかける。
「…離れなくてもいい?」
「もちろん。むしろ、傍に居て」
「……うん」
身を冷やすように吹く風すらも心地よい。
二人は静かに再会の時を過ごした。
「蔵馬様ー!!」
「!悠希、君も久しぶりだね。行き成り飛びつくところも変わってない」
「はい!お久しぶりでございます!!思い出していただけたようで何よりです。
あなたの居ない間の佐倉様はとても見ていられるものではありませんでした。
その落ち込みようと言えば海より深く……」
「…悠希っ!」
「…へぇー…そうだったんだ?」
「……………」
05.06.21