悠久に馳せる想い
屋上と紅を遮る物はすでに一枚の扉のみ。
薄っすらと開いているそこから話し声が聞こえてきた。
紅は階段の壁に背中をもたれさせて会話を聞き取るべく聴力に集中する。
「今のままだと一か月ともたないらしい」
聞こえてきた声に紅は身を硬くする。
実際に南野秀一の声を聞いたのはこれが初めてだった。
耳に残る彼の声ではない。
だが、彼から感じ取れる妖気は明らかに本人だと言う事を示していた。
「彼女を助けたい。俺の望みはそれだけだ。…これ以上大切な人を失いたくはない」
「――――――っ!」
彼の言葉を聞いて紅は息を呑んだ。
そんな彼女の行動に気づくはずもなく、話は進む。
彼の言葉にもう一人いた人物が問う。
「これ以上…?お前、前にも誰かを?」
「…いや…。ただ、朧気に頭に残っているんだ」
僅かに音量が下がった所為で、紅には続きを聞き取れなくなった。
逸る鼓動を抑え、紅はその場から離れる。
紅は振り向き様に階段を駆け上ってきていた男性とぶつかりかけた。
「あ、ごめんなさいっ」
「いや、大丈夫だよ」
短い言葉の掛け合いの後、紅はすぐに階段を駆け下りる。
人気のない廊下まで走ると、その場に崩れ落ちるように座り込む。
呼吸の弾みは、全力疾走した所為だけではない。
「覚えているわけないのに…」
紅は呟く。
弱った蔵馬が人間に憑依するだろうと言う事は容易に想像できた。
自分の事を覚えていれば、例え回復していなくても蔵馬は自分を捜しただろう。
だからこそ、妖力が回復するまでは決して無理をしないようにと、彼に残る自分の記憶を封印したのだ。
「なのに…覚えてるの…?蔵馬…」
頬を涙が伝うのは何年ぶりだろうか。
悲しいのではない。
ただ、彼の記憶の片隅にでも存在できた事が嬉しい。
悠希が彼女の元へ帰って来るまで、紅はただその場で自らの膝を抱いていた。
悠希からあの病室の女性が蔵馬の…いや、南野秀一の母だと言う事を聞かされた。
先ほど慌てた様子で南野が廊下を駆けて行ったことから、恐らくは病体が悪化したのだろう。
「…危険な状態…って事か…」
建物に寄り添うようにして立っている木の枝に腰掛ける紅。
そこから見える病室の窓に視線を向けてそう呟いた。
「暗黒鏡なんて…使わせないわ」
やっと見つけたのだ。
何があっても手放すものか、と静かに拳を握る。
紅はふわりと木の上から下りた。
「佐倉様?」
「行くわよ」
見上げる悠希に一声かけると、紅は再び病院内へと足を踏み入れる。
慌しく病室を出入りする医者。
その合間を縫って部屋の中へ侵入する事は難しい。
「…仕方ないか」
溜め息混じりにそう呟くと、紅は制服の胸元からペンダントを取り出す。
直径1.5センチほどの絳華石に金具をつけ、それに鎖を通しただけの酷く簡易な物。
赤い石を手の平に載せ、ギュッと握り締める。
仄かに帯びた絳華石の光は、やがて病室全体を包み込んだ。
それを見た悠希が声を上げる。
「佐倉様!その力は多くの妖気を消費します!!」
「わかってるから少し黙りなさい」
紅の茶褐色の目が金色に輝くのを見て、悠希は口を噤む。
髪を背中へと払い、紅は早足に歩き出す。
病室の中は全ての時が止まっていた。
忙しなく動いていたであろう医者はカルテを捲った状態で止まり、看護師は点滴を持ち上げて動かない。
そんな人たちの触れぬように紅はベッドの脇まで歩いた。
依然として…むしろ先程よりも悪くなった顔色の女性を見下ろす。
「…治癒の力を貸すから…頑張って」
カリッと自分の指の腹を噛み切ると、流れ出た血から作り出される絳華石を拾い上げる。
それを女性の手に握らせ、その上から自分の手を重ねた。
「…癒しを」
短く紡ぐと、握らせた絳華石が赤い光を帯びる。
やがてそれは女性の全身を包み込むまでに広がり、そして弾ける様に消えた。
「もう大丈夫ですよ」
聞こえるはずのない言葉を紡ぎ、紅は静かに部屋を後にした。
扉がパタンと閉まると同時に、止まっていた時が動き出す。
蔵馬は母の手を握る。
峠は越えた…それも医者でさえ驚くほど回復を見せて。
今はただ眠る彼女に、蔵馬は安堵の表情を浮かべる。
ふと、手に違和感を受けた彼は、彼女の手を開いた。
転がり出てきた赤い石に、彼は目を見開く。
「これは…」
指で持ち上げると、蔵馬は制服の中に仕舞いこんでいたペンダントを取り出す。
紅が持っていたものと全く同じそれ。
そして、今彼の手の中で光沢を放つ石もまた、ペンダントと同じ石だった。
「懐かしい………と言うよりも、愛しい…?」
不意に蔵馬は顔を上げる。
部屋に残る僅かな香が彼の鼻に残った。
一度母に視線を向け、彼女が眠っている事を確認すると蔵馬は無言のまま部屋を出る。
「蔵馬様に会われないのですか?」
紅の足元を歩きながら悠希が問いかける。
彼女は悠希に微笑み、頷く。
「彼は母親の傍を離れないでしょうから。このまま去った方が彼のためになるわ」
正面玄関へと続く廊下を進む紅。
廊下の端では「病に伏していた女性が驚くべき回復したらしい」と噂する看護師らがいた。
そんな会話の横を通り抜けながら、紅は苦笑を浮かべる。
真相を知るのは自分のみ。
くすぐったいような感情が紅を支配していた。
正面玄関の自動扉が開き、紅はその間を潜り抜ける。
同時に夜風が彼女の髪を弄んだ。
それを耳の後ろ辺りで押さえ、彼女は振り向かずに歩き続ける。
「待ってくれ!」
―――その声が聞こえるまで。
05.06.20