夢追いのガーネット
Episode 54
やったぞ、紅!!
バンッと部屋のドアを開いた兄、暁斗は、やや興奮した様子でそう言った。
年頃の妹の部屋を来訪するには些か配慮に欠ける行動だが、彼の様子が珍しく、そこは追及しない。
その代わりに、どうしたの、と問う。
彼は笑顔で握りしめていた紙を紅に差し出した。
皺加工になってしまったそれは、どこからか送られてきたFAXのようだ。
日本語でも英語でもないアルファベットが並ぶそれを見る。
少しの時間をかけてそれを読んだ紅は、目を見開いて兄を見る。
「兄さん、これ…!」
「漸く返事がもらえたんだ。あちらこちらから引く手数多で、随分と時間がかかったが…」
その答えを聞くなり、紅はドアの所にいた兄を押しのけ、部屋を飛び出した。
どこに向かったのかはわかっている。
暁斗は何も言わずにそれを見送り、紅の部屋の窓を見つめる。
程なくして、その向こうに見える翼の部屋から電気が消えた。
部屋の主がそこを去ったのだろう。
「…良かったな、紅」
一人の少年の未来を思って、多くの大人達が動いた。
その結果の一つだと言う事はわかっている。
確かに、自分も彼がサッカーを取り戻すことができればと願い、動いた。
しかし、暁斗にとって、それは二番目の理由だった。
一番の理由は、自分の愛する妹のため。
風祭の事を気にして落ち込む翼を案じる紅。
悲痛に表情を歪め、眉尻を下げる彼女を見て、何とかしたいと思ったのだ。
その結果が、一人の少年を救うことに繋がったに過ぎない。
他の大人たちも、遅い早いはあれど、同じ結論に向かっている。
先ほど玲から連絡があり、彼女もまた、暁斗と同じ結論を導き出した。
送られてきた一枚の紙切れは、未来への切符だった。
数日後、一人の少年がドイツへと旅立った。
周囲の応援と希望が書き記されたサッカーボールと共に。
中学生にとっては、生まれ育った国を飛び出す事は、とてつもない冒険だろう。
けれど、彼は、今後の自分のサッカー人生をかけ、異国の地へと向かう決意をしたのだ。
桜上水のサッカー部員と、東京都選抜のメンバーが空港へと見送りにきた。
仲間に励まされ、風祭は兄と共に搭乗口へと消える。
やがて、飛行機雲が遥か彼方のドイツへと向けて伸びた。
「寂しくなるね」
空港の外から飛行機雲を見つめていた紅がそう呟く。
太陽の光が眩しく、目元に影を作るように額に手を添えた。
「大して変わらないよ。どうせ、学校は違うんだし」
「素直じゃないなぁ」
「…帰るよ」
同じように空を見上げていた翼が、視線をおろして空港に背を向けた。
足早に歩き、駐車場に向かう彼の隣に並ぶ。
「来月からは高校生だね。忙しくて、彼の事を考えてる暇はなくなるかも」
「その前に、卒業式だよ。答辞の練習が進んでないって聞いたけど?」
「誰かさんが心配で、練習に身が入らなかっただけよ。それに、私にあの程度の役がこなせないとでも?」
ニッと口角を持ち上げる様は自信に満ちている。
飛葉中にサッカー部を作ると、生徒を率いて学校に働きかけたあの時の彼女が重なった。
すでに生徒会長の椅子は、二年生へと明け渡している。
しかし、生徒のみならず先生にも一目置かれた生徒会長としての紅は、確かにそこに存在していた。
「それにしても…ここからは暇よねー」
「他の生徒に殴られるよ。これから試験で、追い込みの時期だって言うのに」
「推薦で受かってる身としては、って言う事よ。翼だって同じでしょう?部活に顔を出してるくらいだし」
他のメンバーは一般入試を受けるようだが、翼と紅はすでに推薦で合格している。
これからは卒業を待つだけ、と言う状態の二人には何の制限もない。
他の三年生メンバーが入れない分、翼が二年生以下の部員を鍛えているのが日常だ。
引退した三年生がいつまでも口を出すのは喜ばしい状況ではないかもしれない。
けれど、飛葉中のサッカー部にそんな考えを持つ部員はいなかった。
翼や紅をはじめとするメンバーが、長い時間をかけて作ったサッカー部。
今年入ったばかりの一年生ですら、それを知っているのだ。
だからこそ、彼はその個人技のスキルの高さと共に歓迎される。
今でも自分達が抜けた穴を大きくしないようにと、積極的に部員たちの練習に付き合っていた。
マネージャーである紅もまた、それを引退した身である。
しかしながら、彼女を追って入った二年生のマネージャーはまだ少し不慣れな所があるようだ。
自分が卒業してしまうまではと、彼女も新しいマネージャーに付き合っている。
「来月からは一年生よ。どんな気分?」
「先輩から後輩になるって言うのは、面倒だね」
「あはは。確かに…翼の性格だと、先輩と正面衝突しそうね。翼以上に上手い人なんて、そうは居ないもの」
それでもやるんでしょう?と問う紅。
彼女の質問に、翼は当然と頷いた。
「選抜だって、毎日あるわけじゃないし。ずっとフットサルってわけにもいかないし」
「でしょうね」
「紅はどうするの?」
彼が質問しているのが部活…即ち、剣道部の事だと悟る。
紅は肩を竦めて首を振った。
「もう勧誘が始まってるんだけど…入るつもりはないわ」
「インターハイ優勝者を勧誘するのは当然だよ。何で入らないの?」
「剣道はもう終わり。これからは…自分のしたい事を探すの」
翼のように、それで生きて行こうとは思っていない。
だからこそ、部活に充てていた時間を使い、自分探しをしてみようと思う。
「マネージャーはするつもりだけど」
「やめればいいのに」
「え?翼なら、絶対マネージャーに入れると思ってたんだけど…どうして?」
「俺以外の奴に使われるつもり?」
翼の言葉を聞いた紅は、暫し瞬きを繰り返す。
確かに、高校で後輩として入学すれば、部活にはすでにキャプテンが居る。
その先輩を中心に部が動き、マネージャーもその歯車の一つになるのが当然だ。
今まではその中心は翼だったけれど、これからは別の先輩に使われる身となる。
彼が言いたいのは、そう言うことだろう。
「…あそこのキャプテンは、そう悪い人じゃないわ。翼だって知ってるでしょ?」
願書を出しに行くついでに、サッカー部も見に行ったのだ。
翼が、そこで話をしたキャプテンの存在を忘れているとは思えない。
彼はそれに対して何も答えず、ただふいと視線を逸らした。
そんな行動が可愛らしく見えて、紅は必死に笑いを噛み殺す。
「暇な時間を過ごして翼を待つくらいなら、格好良い所をすぐ傍で見ていたいって思ってるだけなんだけど」
駄目?と首を傾げれば、知らない、と言う短い答えが返って来た。
彼からの遠まわしなOKサインに、そっと笑顔を浮かべる。
「来年は無理でも…再来年の今頃は、翼がキャプテンだといいね。絶対強くなるよ」
「当然。やるからには勝つんだからね」
「楽しみにしてる」
まだ見ぬ高校生活を想像し、笑顔を零す。
さっきまで見えていた飛行機雲が、形を失って空へと溶け込んでいた。