夢追いのガーネット
Episode 53
トレセンが終わり、日常が戻ってきた。
学校へ行って、授業を受けて、友人たちと談笑して、部活に顔を出して、そして帰宅する。
紅達の日常には、何の変化もなかった。
けれど…あの日、一人の少年の運命が変わってしまった。
あれほどにサッカーが好きだった風祭将と言う少年。
彼の膝は、運動量の過多により、酷く傷んでいた。
結果として…日常生活は問題なくとも、サッカーは―――
ドアを開くと、屋上を流れる風が紅を出迎えた。
ザァ、と吹いたそれに遊ばれた髪を押さえる。
「翼」
屋上でごろりと横たわり、空を仰いでいた翼を呼んだ。
聞こえているはずの彼は、振り向かない。
「またここに居たのね。こんな風に当たっていたら、風邪を引くよ」
そう言って近づいていく紅。
返事の声はない。
彼女は、翼の様子に小さく溜め息を吐いた。
このところ…いや、トレセンから帰ってきてから、ずっとこの調子だ。
部活の時間になると、元キャプテンとして部員を扱く。
けれど、それ以外の時間は、こうして無意味に過ごしているのだ。
時折、何かを悔やむように表情を顰めて。
理由はもちろんわかっている。
翼が気にかけていた風祭の一件だ。
「―――…翼が悔やんでも仕方ないよ」
隣に腰を下ろした紅は、小さくそう告げた。
ピクリと肩が揺れたように見えたのは気のせいではないだろう。
「止めていたら、って思うよ。でも、それは翼の所為じゃない。
だって…あの場にいた誰も、彼を止められなかった」
直向で、勝利しか見ていなかった彼を止めることなど、出来なかったのだ。
あれは、誰の所為でもない。
「翼の所為じゃないんだよ」
「ごめん。ちょっと、黙ってくれる」
苛立ちを露にした言葉に、紅は静かに口を噤んだ。
彼がこう言う物言いをするのは珍しいことだ。
どうやら、今回の一件は、予想以上の影響を与えているらしい。
「…わかってるけど、遣る瀬無いんだよ」
吐き捨てるようにそう言う翼。
きっと、彼の悔しさは、自分の比ではない。
同じフィールドを走る翼と、外にいる紅では、その痛みはまったく違う次元のものなのだ。
想像するしかできない痛みに、紅は表情を落とした。
「…俺の機嫌が悪いってわかってるんだから、来なきゃいいのに」
先ほどから一度も絡まない視線。
紅はずっと空へと向けられている横顔を見つめる。
今こちらを向かれたら、泣いてしまいそうだ。
彼の心を思うと、自分のことではないのに涙が零れてしまいそうになる。
どうか、そのままで…と思った。
けれど、そんな切ない願いが叶えられることはなかった。
「―――…なんて顔してんのさ」
ふとこちらを向いた翼が、苦笑交じりに紅に向かって手を伸ばしてくる。
ほんの少し躊躇ってから触れてきた指先が、頬をなぞった。
その指先に誘われるようにして、ポロリと涙が零れる。
「翼が…落ち込むからでしょ…っ」
次から次へと流れる涙と共に、彼女はそう言った。
流れ落ちる透明の雫が、心の苛立ちを解してくれるような錯覚を起こす。
今までの苛立ちが嘘のように消えた。
寝転がっていた上半身を起こし、正面から彼女の目元に触れる。
「馬鹿。紅まで落ち込む必要なんてないよ」
「翼が…何日もズルズル引きずるからでしょ」
「それもそうだね。…ほら、泣きやみなよ」
涙を拭う指先は、先ほどの拒んだ姿勢とは正反対に優しい。
数日がかりで漸く、彼の心の壁が一つ取り払われたようだ。
一度流れ出た涙は、一段落するまでは止まらない。
数分後、少し腫れた目元をなぞりながら、紅は口を開いた。
「ねぇ、あれから彼…どうしてるのかな」
ここ数日なら、逆鱗に触れる発言だ。
しかし、翼の表情は変わらなかった。
「さぁ。連絡してないし。将、携帯持ってないからね」
「そっか。じゃあ、聞いてみるね」
本人が無理ならば、外堀を攻めればいいだけの話だ。
携帯を取り出した紅は、いつだったかに知ったアドレスを引き出してくる。
数回のコールの後、機械越しに聞こえた相手の声。
「うん。雪耶。久しぶり。…そうだね。トレセン以来だから。あなたはどう?―――そっか」
本題から入らずに軽い挨拶を済ませる。
電話を掛けてきた理由など、相手にはわかりきっているだろう。
「彼はどんな様子?」
本題に入った紅は、暫く相手の答えを聞くように沈黙した。
時折、「うん…うん」と相槌を入れる程度で、何かを話したりはしない。
「…そっか。ありがとう。それが気になってたの。…え?あぁ―――お見通しなのね。うん、そんな所かな」
じゃあね、と締めくくり、携帯を閉じる。
一息ついてから、静かにしていた翼の方を見た。
視線を感じていたわけではなかったけれど、少しばかり緊張気味の空気は感じていたと思う。
さりげなく逸らされた視線が、それを物語っているような気がした。
「“元気に笑ろて、無理しとる”だって。
心配掛けないように、落ち込んだ様子は見せずに…部活から遠のいてるみたい」
「…馬鹿じゃないの。心配なんて…しないわけがない」
呆れた、といった態度を取りつつも、それが本心ではないと言うくらいは、長い付き合いからわかる。
そうだね、と同意の声を上げた。
「翼と同じ。尤も…翼の場合は、心配させないように、突き放そうとしてたけど」
「……………」
それを出されてしまえば、二の句を告ぐことが出来ない。
グッと言葉を詰まらせた彼は、そのままふっと視線を逸らしてしまった。
彼なりに、反省するところがあるとわかっているのだろう。
紅は、彼の行動を見てから、視線を空へと向ける。
「何か…出来ることはないのかな」
呟かれた願いは、解決策を持たないままに空へと溶け込んでしまった。