夢追いのガーネット
Episode 47
東北との試合が始まった。
試合展開は、誰もが予想しなかった展開となる。
いや…誰もが、と言ってしまうのは難しいかもしれない。
この展開を予想していた人物が、少なくとも二人は居たのだから。
「翼…」
紅は心配そうにその名を紡いだ。
ハーフなのだろうか。
東北のウイングの一人は、黒人系の血の入った選手のようだ。
彼女の予想を遥かに上回る身体能力。
小柄で、お世辞にも恵まれた体格とは言えなかった翼は、徐々にその苛立ちを募らせていた。
それを肌で感じ取り、紅は表情を険しくする。
そして、紅はベンチに置いたままだった自分の荷物を持ち上げた。
「どこに行くの?」
目ざとくそれを見つけた玲の声が紅を追う。
彼女は玲を振り向き、苦笑を浮かべた。
「他の選抜のチェックに。きっと…翼は今の自分を見て欲しくないと思いますから」
良くも悪くもプライドの高い彼だ。
他の誰でもなく、紅にだけは情けない姿を晒したくないはず。
付き合いが長いからこそわかる、彼の心の内。
彼は必ず立ち上がることが出来る…今は、その底力を信じていることしか出来ない。
玲は紅の返事を聞き、腕時計を見下ろした。
「逃げるの?」
「―――…逃げる?」
「翼の姿…見ていられないんでしょう?自分が劣っている身体能力の事で熱くなっているあの子を」
動きを止めた翼の背中を使い、あわやゴールと言った状況の試合模様。
カッとなったらしい翼が柾輝に止められるのが見えた。
表情を切り替えて誤魔化しているが、飛葉のメンバーにはそれに強がりが含まれていることくらいは分かる。
もちろん、それは紅も同じだった。
「翼…っ」
呟く声が彼自身に届く事はない。
紅は、試合中に大きな声援を出す事はない。
それが彼らの集中力を削ぐ可能性もあると認識しているからだ。
フィールドの外と内。
ラインに隔てられたその壁は大きい。
「今までの翼は、あなたに情けない姿を見せるのを嫌がっていた。だけど、ずっとそんな風に付き合っていくのは無理よ」
そんな事は分かっている。
声にならない紅の答えが聞こえたような気がした。
「翼は乗り越える―――そう信じているなら、この場を離れちゃ駄目よ」
「…その言い方は卑怯ですよ、姉さん…」
これで離れたら、翼を信じていないと言う事になるではないか。
紅はそう言うと、静かに荷物を下ろした。
「全てを見守ってあげる事も大切よ。相手を思ってばかりでは、付き合いは成り立たないの」
時には相手の望まないことでもしなければならない。
それが、未来に繋がる場合だってあるのだ。
自分よりも大人である玲の言葉に、紅は小さく頷いた。
兄が大変だった時期を経て、それでも彼女と兄との仲は続いている。
彼女が言っているのは、そう言う事なのだろう。
心を落ち着かせるように一度目を伏せる。
そして、再び試合に目を向けた。
玲の意向、風祭の熱意により、彼がフィールドに入った。
彼女は風祭の可能性に賭けたのだ。
彼ならば、翼を甦らせる事ができると。
FWの彼は己の役に徹する事無く、寧ろ翼のサポートに回っていた。
熱くなっている翼の穴を埋めるように、守りに徹する風祭。
翼自身もそれを理解しているが、前に出る事なく後ろに下がっている彼を見て、更に苛立ちが募る。
そうしているうちに、前半戦が終了した。
ベンチの方に戻ってくる選手らに配るドリンク類を目で確認し、手近の選手から渡していく。
ただ一つを残して全てを配り終え、最後に見慣れたドリンクを手に取る。
「―――…翼」
小さく呟けば、タオルで頭を覆っている彼の肩が揺れた。
見える位置にドリンクを差し出し、ゆっくりとそれを受け取るのを見届ける。
「自分の見失ってるものを思い出して…」
そう告げると、紅はクルリと踵を返した。
サッカーに関して、自分は彼に何をしてあげる事も出来ない。
選手とマネージャーは違うのだ。
そのまま離れようとした紅だが、1歩も進まないうちにジャージの裾が引っ張られる。
それは決して強い力ではなかったけれど、確かな拘束力を持って紅を止めた。
振り向いたとしても、タオルに隠された彼の表情は見えない。
それでも、行くなとばかりに掴まれたままの裾。
紅は誰からも見えない位置で彼の手を握り、その背後に腰掛けた。
軽く触れ合う背中と指先から、翼の不安や葛藤が伝わってくる。
「応援しか出来ないけど…頑張れ、翼」
どんな言葉をかければいいのか。
背中を押せばいいのか、励ませばいいのか。
そのどれも違うような気がして、ただ「頑張れ」としか言えなかった。
今まではこんな姿を見せたくないと思っていた。
我武者羅に努力するのは紅の居ない所ばかりで、彼女には良い所ばかりを見せようとしていたように思う。
それを知って、彼女も無理にその姿を見ようとはしなかったし、自然と避けてくれていた。
自分はそれに甘えていたのだろう。
情けない自分のプレー。
今回は、彼女はその姿を消す事無くフィールドの傍らに立ったままだ。
「頑張れ、翼」
控えめに握られた手が、大丈夫だと伝えてくる。
酷く安心した。
彼女は、自分のこんなにも情けない姿を見ても、幻滅したり嫌ったりしていない。
信じてくれているのだと―――安堵した。
後半戦が始まる。
徐々にフィールドに戻っていく選手らを見て、紅は手を離した。
立ち上がって振り向いた彼女は、目の前に差し出されたそれに目を見開く。
だが、柔らかく微笑んでそれらを受け取った。
「翼…頑張って」
その背中にそう声を掛ける。
返事はなかったけれど、何故か大丈夫だと確信が持てた。
渡されたドリンクボトルとタオルを抱きしめ、紅はほんの小さく安堵の笑みを浮かべた。