夢追いのガーネット
Episode 44
Jヴィレッジ。
名前だけは何度か聞いた事はあったものの、自分の目でそれを見るのは今日が初めてだ。
合宿の詳細と共に送られてきたパンフレットに載っていたのと同じ角度の所から、その全貌を眺める。
見える範囲にコートが3面。
確か、11面のコートを抱えていると言うのだから…相当の広さだ。
「綺麗な所だろ?」
ぽん、と頭の上に手を置かれる。
覚えのある温もりは兄のもので、見上げればニッと口角を持ち上げる彼の目と視線が絡んだ。
「プロのチームでもよく使ってるからな。時間があれば、練習風景を見に行ってもいい」
「本当!?」
きらきらとした目に見つめ返され、暁斗は笑みを深めて彼女の頭を撫でた。
あまり表情に出さないから見落とされがちだが、紅はサッカーの試合を見るのが好きだ。
だが、それよりも、練習風景を見ている方が好きだと言うのを知っているのは、彼女の知人の中でもごく一部だけ。
試合の時の緊張感は、自分の立場に置き換えて楽しめる部分がある。
練習風景は、自身を全く重ね合わせる事無く楽しめるのだと言っていた。
始めは拙い動きが、時間をおうごとに良くなっていき、やがて成功へと繋がる。
その工程を見ているのが好きなのだと、前に話していた。
「暁斗。受付に行くんでしょう?」
ぼうっとしていると放っていくわよ。
そんな玲の声が聞こえ、彼は紅の背中を押して彼女を追うように歩き出す。
圧巻されるような光景が見られる場所から移動する事にほんの少しの抵抗を見せる彼女。
しかし、自分の役割を思い出したのだろう。
すぐに背中を押されずとも歩き出し、前の一団に追いついた。
そして、いつものように東京都選抜の中でも小柄な部類に入る少年――翼の隣へと並ぶ。
何かを伝えようとしているのか、彼女の横顔が見えた。
身振り手振りを数回、その後、翼の手が持ち上げられ、紅の額をピンと弾く。
不服そうに額を押さえ、彼女がそっぽを向いた。
大方、何か翼が呆れるような事を言ったのだろう。
楽しげな妹の様子に目を細め、暁斗はJヴィレッジ全体を一瞥した。
「…懐かしいな」
暁斗の呟きは、彼から離れていた一団の元には届かなかった。
受付で手続きを終えた玲がメンバーに解散を言い渡す。
スタッフの一人が部屋割りを伝える中、紅は彼女の元にいた。
「4時からの指導者講習会で、マネージャーの顔合わせがあるわ。進行の説明もあるでしょうから、参加して頂戴」
「はい」
「マネージャーは3人まで連れてきてもいいから、本来なら代表1人で構わないんだけど…。
紅が居れば3人も要らないから、助かるわ」
にっこりと笑うと、彼女は荷物を置きに行きましょう、と紅を連れ立ってロビーを後にする。
その様子を横目で見ていた翼が、ガラス越しのサッカーコートを眺める暁斗の元へと近づいた。
「他の選抜もマネージャーを連れてきてるの?」
「あぁ。人数が人数だからな。各選抜独自のやり方もあるだろうし…3人までは許可してある」
「してある、ってことは…トレセンでも結構な位置に居るわけだね、暁斗は」
都選抜だけに留まらない彼に、翼は普段からは想像できない、と首を振った。
この若さで監督達を取りまとめる位置についている彼。
信じられないと思う反面、そのカリスマ性がそれを納得させる。
「心配するなよ。他の選抜が仕事をしないマネージャーを連れてくる事はない」
この間みたいに、と彼は付け足した。
翼がこの話題を出したその理由を、彼は正しく読み取っていたようだ。
都選抜のメンバーが決定するあの合宿の一件は、まだ記憶に新しい。
役に立たないマネージャーに紅が苦労させられた事を思い出していたのだろう。
暁斗の言葉に、翼は「そう」と短く答える。
「自分の選抜以外の世話は禁止。迷惑をかけた場合、その選抜自体はイエロー通り越してレッドカード。
前もってそう言う風に伝えてあったからな。選抜監督も、かなり吟味して連れてきてる筈だ」
それならば安心だろう。
随分と思い切ったものだ、と思いつつ、彼らしいとも思う。
漸く笑みを見せた翼に、暁斗はその頭をポンと撫でた。
4時まではまだ時間があるということもあり、荷物を置いた後は自由にしてもいいと告げられた。
紅は講習会の準備だけを整え、大きな窓へと近づく。
そして、眼下に広がるサッカーコートの一点を見つめ、あ、と声を上げた。
クルリと踵を返し、部屋を後にする。
程なくして紅は先ほど部屋から見たコートへとやってきた。
「佐藤―――じゃなくて、藤村!」
場違いに響いた女子の声に、そこに居たメンバーが驚いたように振り向く。
一人、名を呼ばれた彼だけがニッと口角を持ち上げた。
「久しゅう、姫さん。シゲでええって言っとんのに」
「そんなのどうでもいいよ。それより、選抜残ったんだ!おめでとう!」
彼に駆け寄った紅は、満面の笑顔でそう言った。
どうでもいい、と言う部分に苦笑しつつも、藤村は「おおきに」と答える。
都選抜のメンバーは、いつの間にかとても仲良くなっているらしい二人に、口を挟むのを忘れた。
そんな中、動けた者が藤村以外にもう一人。
「藤村!抜け駆けはずるいんちゃう?」
「ノリック!人を押しのけんなや!」
「言葉交わすんは初めてやな。初めまして、吉田光徳」
人懐こい笑顔と共に差し出された手とその持ち主とを交互に見つめる紅。
突然に割り込んできた彼は、どこかで見たことがある…気がする。
「雪耶紅です。名前は覚えがあるんだけど…どこかでお会いしましたっけ?」
「うん。雪耶暁斗さんの妹さんやろ?前に関西選抜のセレクションで会ったんや。…覚えてない?」
寂しいわぁ、と眉尻を下げる彼を横目に、紅は記憶の引き出しを漁る。
数ヶ月前のとある日のそれを探し当て、ポンと手を叩いた。
「コロコロと良く動いて絶妙なフォローをしてた人!」
「うーん…その覚え方は微妙やなぁ」
「ごめんね。顔までは覚えてられなくて…でも、残ると思っていたから、名前は覚えてるよ」
改めてよろしく、と差し出されたままだった手を握る。
吉田の方も、まぁいいか、と思ったようだ。
再びにっこりと笑顔を浮かべた。
「雪耶!シゲが関西選抜に居る事、知ってたのか?」
置いていかれていた都選抜メンバーの中、一番に声を上げたのは水野だった。
どこか余裕が無いように見える彼に心中を傾げつつも、紅は頷く。
「関西選抜のセレクションの時、丁度休みが重なったから。ドライブついでに、私も連れて行ってもらったの」
そこで、藤村が関西選抜に居る事を知ったらしい。
尤も、その時点では関西選抜メンバー候補だったのだが。
紅自身は彼が落ちるなどありえないと確信していた。
もちろんそれは現実となり、藤村はこのトレセンに関西選抜の選手として参加している。
「知ってたなら、教えてくれても良かっただろ!」
「え、だって…知ってると思っていたし。教えた方がよかったの?」
問いかけは、水野本人ではなく、他の桜上水メンバーへと向けられたものだ。
同じ中学校なのだから、聞いていると思っていた。
現に飛葉中のメンバーは、井上が関西選抜に参加していることを知っている。
だから自分の口からそれを伝える必要性など、微塵も感じてはいなかったのだ。
水野の言い分が分からない、と紅は不思議そうに首を傾げる。
「タツボン、姫さんを責めるんはお門違いやで。俺が隠しとっただけで、姫さんは関係あらへんやん」
「………俺は先に戻るっ」
そう言うと、水野はこちらに背中を向けて建物の方へと歩いていってしまう。
結局彼が何を考えているのかが全く分からず、紅は疑問符ばかりを積み重ねた。
「気にせんでええよ。ちょっとイライラしとるだけやから」
「…藤村、言ってなかったの?」
「こう言うのは、当日に驚かすから面白いんやで」
にっこりと笑った彼は、心からそれを面白いと感じているようには見えなかった。
別の感情が含まれているような気がして、紅は口を噤む。
よく分からないけれど、二人の間には何かあるのだろう。
友人の域を出ない自分に入り込めるのはここまでだ。
それ以上を踏み込むつもりのない紅は、話を終わらせるように「そっか」と頷いた。