夢追いのガーネット
Episode 39
起床予定の時間よりも15分ほど早くに目を覚ました紅。
彼女は隣のベッドで眠る玲を起こさないように注意しながら、身体を起こす。
寝ていたときのぬくもりを纏ったベッドから出れば、身体を包むのは刺すような寒さ。
思わず身体を震わせて、近くにあったソファーに掛けたままだった上着を羽織った。
そして、足音を忍ばせて窓辺へと近づき、遮光カーテンの外側へとその身を滑らせる。
冬独特の結露した窓を前に、上着の前を合わせていた片手を上げて目線の高さの部分を拭う。
窓に付着していた水が掌から手首を伝って肘へと滑り、その冷たさに思わず声を上げてしまいそうになった。
「寒い…」
気温としては、こちらの方が寒いだろうか。
いや、もしかするとあまり変わらないのだけれど、環境の変化がそう感じさせているだけなのかもしれない。
拭った部分から、まるで涙でも流したかのようにいくつかの筋が重力に従って窓の桟へと落ちる。
見上げた空は少しどんよりとしていて、これから気温が上がってくることを期待するのは難しそうだ。
そう思った彼女は、その身をカーテンと窓の間から部屋の中へと戻す。
外の空気を浴びている窓辺とは違い、部屋の中は少しだけ暖かかった。
そのまま足を止めずに添えつけられているテレビの前へと進んで、脇においていたリモコンを手に取る。
それの電源ボタンを一度押した後は、玲を起こしてしまわないようにすぐに音量を絞った。
近くに居てギリギリ聞こえる程度の音量に設定すると、今度はチャンネルを操作する。
そうして目当ての天気予報のそれを見つけたところで、漸くその手を止めた。
聞こえてくる言葉は全て韓国語。
当然のことながら旅行者の為にゆっくりと話してくれる筈もなく、母国語のそれを自在に使いこなす気象予報士。
聞き取れて話せる、けれど慣れているわけではない紅にとっては、少しばかりハードルが高かった。
それでも、必要な部分だけは何とか聞き取る事が出来て、耳への集中を解こうとした、まさにその時。
「紅…もう起きていたの?」
「あ、起こしちゃった?」
ごめんね、と半ば反射的にそう答えながら振り向けば、上半身だけを起こした玲と目が合う。
寝起きの彼女は、髪の裾が少しだけ跳ねていて、それがどこかいつもとは違う印象を与えた。
尤も、そんな彼女も見慣れている紅にとっては、いつもと何ら変わりはない。
「自然に起きたのよ。気にしなくていいわ」
そう言うと彼女はベッドの脇にあった時計の時刻を読み取る。
そして、その時計に合わせていたアラームをOFFにして、再び紅の方を向いた。
「…天気予報を見ていたの?」
そう確認するのは、今映されている画面はすでに天気予報を終えてしまっているからだ。
それを一瞥して、紅はプツリとテレビの電源を切る。
「そう。今日の天気は期待できそうにないみたい」
「雪になりそう?」
「…どうかな…。雨よりはマシかもしれないけど…」
そう呟けば、玲は「雪も性質が悪いわよ」と答えつつベッドから出た。
そんな彼女を見て、寝ている時には緩くしていた空調の温度を上げる。
この気温の中での着替えは少々厳しい…と言うか、自分が嫌だった。
「天気には恵まれないだろうけど…皆なら大丈夫だよね」
「ええ」
「あとは、怪我さえなければ…勝ち負けはどっちでもいいかも」
そう言って最後は苦笑いに似たそれを浮かべた紅。
彼女に向かって玲は、こら、と笑みを浮かべながら少しだけ悪戯に声を尖らせる。
「初めからそんな事でどうするの」
「私はマネージャーですから。皆さんに怪我がないことが最優先。勝ち負けは玲姉さんの管轄でしょう?」
「まったく…」
「大丈夫。応援はちゃんとするよ」
そんな風にして今日の予定も確認してしまった頃には、室内も適度に暖められていた。
手早く着替えを済ませ、荷物の整理を済ませる。
そして、朝食の時間だとメンバーに知らせていた時間よりも30分早く、二人は部屋を後にした。
はぁ、と吐き出した息が白く曇る。
これは、身体を動かさないと辛いかもしれない…そう感じさせるには十分な寒さだった。
スタジアムに入った東京都選抜の一行は、すでに練習を始めている。
軽いランニングを終えた後は各々のアップをこなしている彼らの傍ら、紅はマネージャー業に勤しんでいた。
救急箱の中身をチェックしつつ、寒さで赤くなった手を擦る。
手袋をした状態では細かい作業が出来ない為、今はそれを外していた。
お蔭で指先の動きはいつもの数倍は悪く、その所為で作業の効率も悪い。
この寒さは誰に怒っても仕方のないことなのだが、怒りたくなるのは無理のない話だと思う。
「紅ー!俺達フィールドの外をもう一周走るから、紅も来いよ!」
不意に、そう呼ばれて紅は顔を上げた。
数メートル向こうに居た翼が上着をベンチに置いて柾輝や六助、そして風祭らとこちらを見ている。
どうやら、寒さが応えている事に気付いていたらしい。
作業の途中だった紅は少しだけ悩んだ後、一旦救急箱を閉じて彼らの元へと歩み寄った。
「よく気付くね、あんな遠くから」
「紅は寒がりだしね。ほら、行くよ」
時間が勿体無い、とばかりに彼を先頭にして軽く走り出す。
紅もトンと芝を蹴って続いた。
骨の髄まで冷え切っていたわけではないけれど、どこか身体の動きが悪い。
しかし、すでにアップを整えている彼らから引き離されないのは、彼らが本気ではないからだろう。
試合前に体力をすり減らしてしまっては意味がない。
走っているうちに身体も温まってきて、問題なく彼らについていけるようになった。
その頃合を見計らったのか、もしくは距離で判断したのか。
徐々に速度を落とし、やがて足を止める。
「紅!身体が温まったならこっちに来てちょうだい」
改めて礼を言おうとした紅は、ベンチの方から玲にそう呼ばれる。
彼女に向けて返事をした後、紅は翼たちを振り向いた。
「ありがとう。じゃ、呼ばれてるみたいだから」
「あんまり身体を冷やすなよ。ただでさえ寒いのに弱いんだからね」
「はーい」
じゃあね、と言い残して玲の元へと駆けていくその足取りは軽い。
どうやら、身体は本調子を取り戻したようだ。
そんな彼女を見送り、玲と合流したのを見て翼は身体を反転させ、練習へと戻る。
「暁斗が用らしいわ」
呼んだのは玲だけれど、用があるのは暁斗らしい。
彼女の言葉に、紅は隣に居た兄を見上げ、何?と言いたげに首を傾げた。
「こっち側は騒ぎにならないとは思うんだが…一応、伝えておく」
「うん」
「今回、ソウル選抜は親善試合じゃなく真剣試合として臨んでくる」
「そうなの?」
試合である以上、そうなっても別段おかしいことではない。
しかし、名目は親善試合となっているだけに、紅はそう問いかえした。
そんな彼女に頷き、暁斗は一枚の写真を取り出し、理由を説明する前に彼女に手渡す。
「この一緒に写ってる人…どちら様?」
「スペインのとあるクラブチームのスカウトマン。で、向こうの俺の友人」
「…相変わらず、顔広いね…」
世界各国を飛び回ることもあるのだから、その先に友人が居ても不思議ではない。
だが、こんな世界の片隅でその人物に出会うことなど、確立にすれば限りなくゼロに近いはずだ。
「スカウトマンの目に留まるためにも手は抜いてこない。勝ちをもぎ取りに来る―――ってことね」
「ご明察。ついでに、挨拶がてら今から会いに行く予定なんだが…どうする?」
「どうするって聞かれても…私、無関係だから…」
「…玲、こいつの仕事は終わってるのか?」
突然、暁斗は紅ではなく玲にそう問いかける。
玲はベンチの上の荷物や周囲を見回したあと、頷いた。
「なら、ちょっと借りる」
「ええ。試合前にはミーティングが入るから、その時には返してちょうだい。もちろん、あなたも戻るのよ」
「わかってるって。向こうも仕事前なんだし、話し込んだりはしねぇよ」
安心しろ、そう言って彼女の肩をたたくと、暁斗は紅の手を引いて歩き出す。
無関係だから…その先に続く言葉は「やめておく」だ。
それがわからない彼ではない筈なのに、真逆の行動を取るこの意味が理解できない。
「兄さん…?」
「いい機会だ。スカウトマンに会っとけ」
「…って言うか、それなら初めから聞く意味ないし…」
「気にすんな。お前、将来の目標を探してるんだろ?なら、色んな人と会って、色んな話を聞け。で、悩め」
それが第一歩だ。
暁斗は紅の手を引きながらそう言った。
彼の目は前を向いていて、こちらを向く事はない。
どこか真剣で、それでいて優しいその眼差し。
「運が良い事に世界各国、職種多様に顔の広いお兄様がその手伝いをしてやる。今回がその一人目だ」
「…ありがと」
こうして兄に手を引いてもらうのは、いつ以来のことだろうか。
照れも恥ずかしさもなくて、純粋な兄に対する親愛を込め、その手をぎゅっと握る。
そうして紅は異国の地で自身の将来に向けての第一歩を踏み出した。