夢追いのガーネット
Episode 38

ホテルに戻ったのはそれから数分後の事。
ふと壁に掛かっていた時計を見上げた紅は、玲が部屋に戻るにはまだ早いことを確認して安堵の息を漏らす。
隣から感じる、肌を刺すような空気も恐ろしいと言えばそうなのだが、彼女の雷の方が恐い。
後者の可能性が無いと分かると、紅は先手必勝とばかりに口を開いた。

「じゃあ、私はこっちだから―――」
「将、柾輝。先に戻っててよ」

まるで紅の言い出す言葉など分かっていた、とばかりに淀みも間もなく紡がれる翼の言葉。
図らずも呆気に取られる彼女を横目に、彼はその手を取って彼女の部屋のある方へと歩き出してしまう。
腕を引かれ、身体が彼を追おうと動き出す直前に、紅は視界に郭の姿を捉えた。

「…ごめん」

小さく紡がれたそれは、紅の耳には届いた。
彼女はその言葉に苦く笑うと、ゆっくりと首を振る。

「お休み、三人とも。ゆっくり休んでね」

そう言って、心配も気にする必要も無いのだと、彼女は微笑みを残す。
そして、引っ張られるのではなく自分から彼の後を追って歩き出した。









紅が自分で付いてくるようになれば、翼は腕を引く力を緩める。
そうして、彼女が隣を歩ける速度にそれを落とし、人の無い廊下を進んだ。
沈黙は痛いと言うわけではない。
けれども、中々居心地の悪い種のそれだった。

「…翼?」

不意に、彼が足を止める。
それに反応した紅が控えめに彼の名を呼ぶが、返事はない。
手を掴まれている以上、彼女一人が先に進むこともできず、結果として廊下半ばで二人は立ち止まった。

「郭と出かけたの…いつって言ったっけ?」
「先月末の土曜日」

そう答えた後は、また沈黙だ。
一体彼が何を思い、そして歩みを止めているのかが分からない。
そろそろ玲が戻ってくる時間だろう、と思った紅は、控えめながらも口を開いた。

「もう、休んだ方がいいと思―――」

言葉半ばでそれが途切れたのは、グイッと強めの力で腕を引かれたから。
自分よりも背の低い子供に腕を引かれた時とは違い、腰を折ったりはしない。
けれど、体勢が崩れるには十分だった。
翼に向かって倒れこんでしまう直前、その肩を握られ身体をクルリと反転させられる。
そうして、背中からその胸に飛び込むようにして二つの腕の中に包み込まれた。

「全部話せとは言わないけど、事後報告でもいいけど…話して欲しい」
「…他の人と出かける事?」

彼の方を見たりはしない。
真正面から抱きしめるのではなく、態々身体を反転させた。
その理由を知ることなど、息をするよりも簡単だ。
そう問いかければ、背後で頷くのがわかった。

「悠希でも?」
「佐倉は…いいよ。どうせ、その翌日にはあいつに自慢されるし」
「あー、確かに」

その光景を思い出して、紅はクスリと笑う。
悠希は何かにつけて翼をからかったりするのが好きで、自分と出かけた翌日には必ず彼に報告するのだ。
今日の紅はああだった、どこそこへ行った―――など。
最近では翼も慣れた様子であしらっているが、初めの頃はよく衝突しているのを見たものだ。
喧嘩するほど仲が良い、と言えば両者からきっぱりとした否定を聞けた事も、今となっては懐かしい。

「じゃあ、柾輝たち」
「…あいつらも事前に言ってくるから必要ない」

翼の溺愛っぷりを理解しているからだろう。
紅と単独で出かけなければならない用がある時には、事前に日付まで報告してくるのだ。
尤も、彼女と二人で出かけなければならない用事など、そうそうあるものではないけれど。

「じゃあ、それ以外の人か…。選抜メンバーは報告するのね」

この言葉の原因が、先日郭と二人で出かけたからだと分かっている。
だから、選抜メンバーは報告不要範囲から除外される。
今回のように頼まれれば出かけると言う自覚があるだけに、紅は素直に頷いた。

「いいよ、わかった。出かける時にはちゃんと話すから。浮気だなんて馬鹿なこと言わないでね」
「…思ってないよ、そんな事」
「顔はそう言ってないよ」

クスクスと笑いながら、自分の腹の辺りで組まれている手に自身のそれを重ねる。
顔を見ているわけではないけれど、幼馴染の自分を侮ってもらっては困る。
声色だけでも彼の心情を掴み取る事など簡単だ。
紅の言葉に、少しだけ身体に回された手に力が篭った。

「それにしても…翼の嫉妬なんて、貴重な体験」
「煩いよ。紅もさせてあげようか?」
「どうやって?」

そう問いかければ、彼は沈黙する。
やがて、暫しのそれのあと、口を開いた。

「………適当な女を連れる…とか」
「翼が出来るの?」

そうは思わないけどなぁ、と言いながら、紅は微笑む。
声に出して笑ったわけではないから、翼は気付いていないだろう。

「やろうと思えば出来るよ」
「じゃあ、そんな無駄な努力はしないでね。私はいつだってヤキモチばっかりなんだから」

スルリと翼の腕の中から抜け出すと、紅はトントンと前に歩いて振り向く。
漸く彼の顔をその視界に納めたことに、彼女は満足げに笑みを深めた。
そして、解せない、といった表情の彼に向けて、悪戯に笑う。

「白くて黒くて、丸いものに。真剣な眼で見つめてもらえるそれに、いつも」
「…俺が紅の事を真剣に見ていないみたいだね、それ」
「違うわよ。ただ…あれに向ける視線は、この先何年一緒に居たとしても向けられる事は無い。そう思うと、妬けるわ」

サッカーに向けるその姿勢や眼差しを見る事は出来る。
しかし、それが自分自身に向けられる事は、絶対にないのだ。
自分はサッカーではないのだから。

「…馬鹿だね」
「うん。人を恋するって、そう言うものでしょ?」

馬鹿みたいな小さなことに泣いて笑って悩んで、それから喜んで。
くるくると独楽のように心を躍らせて、毎日その人の事を想う。
時には、到底幸せだなんて言えない日だってあるだろうけれど、それでも後になればその時すらも愛おしい。

「前に言ったよ。俺は紅の方が大事だって」
「知ってるよ。はっきり口に出してくれたわけじゃないけどね」
「…そう何回も言う事じゃないでしょ」

伸びてきた手が、ピンッと紅の額を弾く。
痛みなど無いけれど「痛っ」と声を上げてみたりする、この一瞬だって尊いのだ。

「だから、変にヤキモチ妬かせようとしないでね。…兄さん達に泣きついちゃうかもしれないし」
「…脅し?」
「そんなつもりないよ。事実を言ってるだけ」

にっこりと笑う彼女は、確かに事実だけを述べているのだろう。
悩んだり、壁にぶつかったりした時には暁斗や玲に相談する。
もし、その原因が自分だったならば―――その先を想像するのは恐ろしいものがあった。

「…ま、その必要も無いみたいだしね」
「そう言う事。でも…嬉しかったんだよ、翼」
「嬉しい?」
「うん、嬉しかったの。翼が想ってくれてるんだってことがわかったから」

本当に嬉しそうに微笑んだ彼女に、翼は照れる事すら忘れた。
嫉妬という感情は、少なからず相手を想う心があって初めて生まれるものだ。
現に、自分も紅がサッカーに妬いていると聞いて、やはり嬉しかった。
その目に、視界に―――自分が映っているのだということが、嬉しいのだ。

「…当たり前だろ。どうでもいい奴ならこんなに長い間一緒にいたりしない」
「そうだよね。でも、不安にさせたくはないから…これからは、ちゃんと話すよ」

ごめんね、と少し眉尻を下げた彼女に、翼は苦笑の笑みを零した。
何だか、嫉妬した自分は酷く醜いような気がしていた。
けれど、彼女はそれが嬉しいのだと笑う。
そして一瞬でも不安にさせてしまったことを謝る彼女に、最早自身を醜いと思う感情は消え去っていた。
残ったのは、ただ愛おしいと言う感情だけ。

「…好きだよ」

理由もなく言葉が零れる。
それが意外だったのか、彼女はぱち、と目を瞬かせた。
しかし、次には満面の笑みで微笑み「私も」と答える。

「人を好きになるって嬉しいんだなって実感ばっかり。
私達はまだ中学生だけど…きっと、この先これ以上に人を好きになることなんてないと思う」

大人から見れば、青臭い以外の何物でもないのかもしれない。
いずれ、この想いだって変わってしまうのかもしれないけれど、それでも。
彼に対する想いだけは不変のものであると、何よりも大きなものであると、そう信じていたい。

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07.02.18