夢追いのガーネット
Episode 35
飛行機に乗らなくて済みますように。
一年健康で居られますようになんて、無理なお願いはしなかった。
ただ、それだけを願ったのに―――その日は、来てしまった。
「忘れ物はないか?」
「覚悟を忘れてきたわ」
フンと顔を逸らしつつ、不機嫌この上ない空気を露に助手席に座る紅に、暁斗は苦笑した。
忘れてきた、と言いつつも、ちゃんとシートベルトを締めているのだから、すでに諦めてはいるようだ。
出来る事ならば、彼女の嫌がる事はさせたく無いと言うのが兄心。
だが、慣れさせなければと思うのもまた、兄の心情だった。
年末に仕事をつめたお蔭か、都選抜の韓国行きに便乗する事が出来た彼。
紅にとって安心できる人物が一人増えたと言うのは、幸か不幸か。
後の事を思ってバスでは酔ってしまうであろう彼女を気にかけ、空港へは彼の車で向かう事になっている。
その心遣いはありがたかったが、どうせならばこの韓国行きをなかったことにして欲しかったと言うのが彼女の本音。
ここでそれを言っても無駄に困らせるだけなので口には出さない。
その代わりに、表情や空気に出す事くらいは許して欲しい。
「んじゃ、行くか」
そう言ってアクセルを踏み込み、車は家の前の道を走り出した。
あれほど大騒ぎしてのカミングアウトだったのだから、皆が今日と言う日に注目してくるのは分かりきっていた。
メンバーの好奇の視線にうんざりしつつ、紅は隣の暁斗の存在に感謝する。
彼は都選抜スポンサー代表兼最高責任者と言う、口に出せば何だか重く感じる役職を担っている。
それが功を奏して、メンバーも友好的に近づいてくる事ができないのだ。
元々妹である彼女自身も見惚れてしまうような容姿を持つ彼は、その身に纏う空気すらもどこか秀麗だ。
それが、彼らを遠ざけるのを手伝ってくれている事は言う今でもないだろう。
「漸く諦めたんだね」
そんな声が降って来たかと思えば、空いていた隣の席にストンと座るその人。
窓際を断固拒否した紅に変わって暁斗がそこに座り、その隣に紅。
三列のシートは、もう一席の空席を残していた。
そこに座ることの出来る人物と言えば、紅が可愛くて仕方のない玲もしくは暁斗の空気に飲まれない翼。
座ったのは、後者だった。
「いつまでも駄々を捏ねるほど子供じゃないわ」
「それはよかったよ。その年になって泣き付かれたらどうしようかと思ってたんだ」
「…普段なら応えない翼の毒舌が痛いわ…」
助けて、とでも言うように、紅は暁斗の方へと凭れかかる。
窓の外を見ながら彼らの遣り取りを聞いていた暁斗は、よしよしと彼女の頭を撫でた。
「あんまり苛めてやるなよ、翼。生憎、今日の紅は気を紛らわせてやろうって言うお前の心遣いには気付かないからな」
ニヤリと口角を持ち上げつつそう言えば、形勢逆転。
顔を逸らすのは翼で、勝ったと笑みを深めるのは暁斗だ。
紅は暁斗の言葉に彼を見上げ、頷かれると翼の方を向く。
本当なの?と問いかける事はしない。
何故なら、不自然に逸らされた彼の視線が、その全てを物語っていたからだ。
「…ありがとう」
暁斗の肩から頭を離し、紅はそう言った。
流石に、ここで翼に凭れかかる様な事はしない。
してしまえば、彼が後からメンバーにからかわれる事は必至だ。
彼ならば上手くかわすのだろうけれど、迷惑はかけたくないと言うのが彼女の考え。
代わりに、視線を向けてくる彼らに見えないように、翼の手を握った。
望んでいない事だとしても、紅は何度も異国の地を体験している。
空港に降り立ってしまえば、何の事はない。
異国の地に興奮冷めやらぬメンバーとは違い、いつもと変わらない表情と態度で、大人の話し合いに耳を傾けていた。
「ガイドさんとの合流が先ね。その後はあちらさんに任せればいいから…」
「玲姉さん、あの人」
クイッと彼女の袖を引けば、間をおかずに振り向いてくれる。
紅の示す先へと視線を向けて、玲は「東京選抜ご一行様」と言うプレートを掲げた人物を捉えた。
ハングル文字ではなく、親しみのある漢字で書かれたそれに、玲は紅に礼を言う。
そして、その人物の元へと歩いた。
その後はバスによる移動だ。
乗り物の繰り返しで腰やら足やらが酷く疲れるように感じたが、予想していた事なのでさほど苦痛ではない。
暁斗の隣に座り、これからの流れをもう一度確認しながら、過ぎてゆく風景を目に入れた。
日本ではありえない車線の数、読めるけれど見慣れないハングル文字。
全てが異国である事を証明し、例えようのない高揚感を与えた。
飛行機は嫌いだけれど、この高揚感は嫌いじゃない。
彼女にとって不幸だったのは、生まれたのが島国であった事だろう。
時間が迫っている事もあり、ホテルへと向かいながらのやや簡単な観光。
それでも見ていて楽しいし記憶には残るそれを終え、すっかり日も暮れた頃にバスは動きを止める。
夕食が焼肉だと知り、我先にと建物の中へと入っていくメンバーを見送りながら、のんびりとバスから降りた。
「暢気だなぁ」
「あら、あれくらいの方が子供らしいわよ。紅も一緒に楽しんでみたら?」
「んー…そんな事をする性格だと思う?」
そう問いかけてみれば、玲からの返事は「思わないわね」だ。
紅が年相応に彼らのように騒ぐのは…それこそ、ごく一部の者しか見られないような場のみ。
まぁ、楽しんでいないわけではないのだから、無理強いするつもりはない。
迷惑にならない範囲ならば、少しくらい羽目を外しても構わないだろう。
そう思いながら、大人メンバーと紅は一つのテーブルへとついた。
夕食中、郭の従兄弟だと言う李潤慶の乱入もあったが、問題もなく事なきを得る。
紅は玲とツインの部屋に案内された。
見回りやら明日の打ち合わせに赴いている玲の不在中に室内のベルが鳴る。
紅は、翼だろうか、と思いながらドアの方へと向かった。
しかし、そこに居たのは予想外の人物だ。
「あれ、郭。どうした?何か問題でも?」
ドアを開けたそこに立っていたのは、他でもない郭本人だった。
紅は少し驚いたように彼の後ろやら横やらを見る。
いつも一緒の若菜や真田は不在で、彼一人らしい。
「今時間ある?」
「うん、大丈夫だけど…その格好」
外にでも行くつもり?と言う言葉は飲み込まれた。
空調の効いた廊下で防寒具を羽織る必要はない。
その必要があるとすれば、それは寒空の下に赴く時だろう。
「少し、外に出るんだ。時間があるなら一緒に来て欲しいんだけど…」
「夜間は外出禁止よ?」
知っている筈なのだが、と思いながら、紅はそう言った。
彼女の言葉に、彼は「知っている」と頷く。
しかし、自分の行動を改めるつもりがない事は、その表情から明らかだ。
紅は少し悩んだ後、ふぅと肩を竦める。
「上着を取ってくるから待ってて。玲さんが戻るまでの二時間だけね」
そう言って一旦部屋の中へと戻り、彼と同じ選抜チームの上着を羽織ってから鍵を持ってドアへと戻る。
廊下で待っていた彼に「お待たせ」と声を掛け、二人は歩き出した。
「つ、翼さん。あの…」
廊下の片隅に、二人の背中を見つめる…もとい、睨みつける影があった。
どこか焦ったような風祭の言葉を止めるように、柾輝が彼のポンと肩を叩く。
そして、振り向く彼に「放っておけ」とでも言うようにフルフルと首を振った。
「…行くよ」
その秀麗な表情は不機嫌に歪んでいて、声もいつもより低い。
それもそのはずだ。
8時前と言ってもすでに日は暮れて夜空が闇を降らせている。
そんな時間帯に、自分の恋人がメンバーの一人と並んで出て行くところを目撃してしまったのだ。
今までの経験が、彼女に限って浮気などありえないと分かっていても、理性は納得しない。
「ど、どうしよう、黒川くん!翼さんが怒ってるよ!」
「だから、放っとけって。雪耶が翼以外とどうこうなる訳ねぇんだからな」
スタスタと歩いていく翼に置いていかれないように足を速めつつ、二人はそんな言葉を交わしていた。
そうして、紅と郭、そして翼に柾輝、風祭の5名は、ネオンの光の降る外へと歩き出した。