夢追いのガーネット
Episode 33
「そんな事かよー…」
「そんな事ってね!飛行機の辛さって、嫌いな人にしかわからないのよ!?
浮上する時の重圧も、絶対に逃げる事のできない閉鎖空間も…何もかも!」
考えただけで嫌になる、と声を荒らげる紅に、メンバーは苦笑。
非常に珍しい光景で、見ている分には面白い事この上ない。
しかし、その半面でここまで必死だと可哀想な気もしてくる。
皆、そう思いながらも面白いので口にはしないのだが。
「何を騒いでるの?」
もうすぐ練習よ。
そんな声と共に登場したのは、説明する必要も無い我らが選抜美人監督。
その笑顔はいつもとどこか違い、「あぁ、話題の内容が分かっているんだな」と思わせるようなそれだった。
弾かれたように翼の腕を離れ、玲の前に立つ紅。
その速さといえば、いつものマネージャー業の数倍だったように感じてしまうのは目の錯覚だろうか。
「玲姉さん!親善試合にマネージャーは必要ありませんよね!?」
「もちろん必要よ」
にっこりと返されても、怯んでいる場合ではない。
彼女にとっては死活問題だ。
「…私、この日実家に戻らないと…!」
「あら、暁斗に話したら「海外出張が入るから丁度いい。連れて行ってやってくれ」って言っていたわよ」
余計な事を…!と言う紅の心の声が聞こえてきそうだ。
次なる言葉を捜す彼女に、玲は笑いかける。
「折角なんだから、韓国の選手に可愛らしいマネージャーを紹介したいじゃない?」
「姉さんに可愛いって言ってもらえるのは凄く嬉しいです。でもですね…嫌なんですよ、飛行機!!」
「何度も乗ってるじゃない。今度も平気よ」
玲の言葉に、紅はぐっと声を詰まらせる。
そう、海外で仕事をしている両親を持つ紅は、今まで何度も海外旅行を経験している。
その数を競うならば、同年齢の中では間違いなく5本指に入るだろう。
だからと言って平気だと言い切られても困る。
苦手なものは何度経験したって克服できない事だってあるのだ。
「安心しなさい、紅。他の移動はバスだから」
「どっちにしたって絶対2回は乗ることに変わりはありませんよね」
どんどん卑屈な答えになってくるのも、この際許してもらいたいところだ。
どの道、彼女がここまで言ってくる時には自分が何を訴えても無駄。
無駄な努力ではあるが、言わずには居られないのだから仕方が無い。
玲もその思いを理解しているのか、言われるがままに受け流している。
溜め息の後ふいっと顔を背けると、紅は午後からの練習の準備に向かってしまった。
「…雪耶にも苦手な物ってあったんだな…」
「何か、意外って言えば意外だけど…」
「あぁ、平気で乗りそうな印象あるよな」
「うんうん。ってか、よっぽど苦手なんだな」
すっげー力説だった、と苦笑いを浮かべたのは誰だっただろうか。
因みに、紅と同学年の飛葉中メンバーは、彼女が飛行機を苦手としている事を知っている。
何故なら―――学校には、修学旅行というありがた迷惑な行事があるのだ。
旅行は嫌いではないが、飛葉中の旅行先までの経路にはしっかりと空路が含まれていたのだ。
他の生徒の手前、今回のように表には出さなかった。
代わりに、我慢をしすぎたのか旅行が終わってから体調を壊して3日間学校を休んだ。
その理由を知っているのは、飛行機の間彼女の気を紛らわす事に努めた翼、悠希に五助と直樹だけである。
「玲も人が悪いよ。別に、あんなに嫌がってるのを無理に連れて行く必要なんて無いだろ?」
試合だけなのだから、マネージャーは必要ないといえば必要ない。
選抜専属のスタッフだって居るのだから、いくらでも補えるだろう。
そんな翼の声に、玲は「あら」と心外だとでも言いたげな声を発する。
「将来海外遠征に連れて行くかもしれないのに、今から慣れておかないと困るんじゃないの?」
誰が、とは言わない。
少なくとも、海外遠征に彼女を連れて行くのは玲ではない。
持ち前の回転の良い頭は瞬時にそれを理解した。
そして、身体も心とは裏腹に動く。
頬に僅かに朱を乗せ、翼は顔を背けて立ち上がった。
その場の視線を自身に集めた事も知ってたが、それに口を開く事はない。
ただ、逃げるように彼らに背を向けて、すでに無い背中を追った。
これ以上この場に止まれば、あの意地の悪いはとこに何を言われるかわかったものではない。
前に何度か選抜練習で使ったグラウンド故に、位置関係などは大体把握している。
グラウンドを離れ、少し行った所にある水道を目指した翼は、難なくその前にある紅の姿を捉えた。
しかし、水道に向かって立っていた背中がしゃがみ込むのを見て、自分の血の気まで引くような錯覚を覚える。
「紅!?」
調子でも悪いのかと焦る自身を駆け、彼女の元へと歩み寄った。
声を掛ければピクリと肩を揺らした彼女に、僅かに安心したような表情を浮かべる。
だが、状況は何も変わっていないのだと思い出し、彼女の傍らに膝をつき、その肩に手をかけた。
「気分でも悪いの?」
そう問いかけて、暫く答えを待ってみる。
数秒が、数十秒に感じられた。
「…平気」
小さく返って来た答えに安堵するも、それならば何故、と言う新たな疑問が鎌首を擡げる。
それを口に出せば、また少しの沈黙の後小さく答えが聞こえた。
「…お願いだから、少しだけ放っておいて…欲しいかな」
しゃがみ込んだまま自身の膝に顔を埋めてしまっている彼女の表情は見えない。
聞いただけでは拒絶のような言葉。
しかし、その声色は彼を拒んでいると言うよりは、どこか羞恥心を含ませるような物であると気付く。
訝しいと訴える自身に背中を押され、翼はぐいっと掴んだままの肩を引いた。
不意打ちのそれに堪える事もできず、紅は驚いたように顔を上げてしまう。
そして、その目に彼を映してから抗えば良かったと後悔した。
「…顔、真っ赤」
「う、るさいな…。自分でも分かってるし」
フンと顔を背けつつ、そう答える。
どこか素っ気無い答えも、それが照れ隠しだと気付いているだろう。
「何だ…今更恥ずかしくなって、合わせる顔が無いとか悩んでただけか…」
心配して損した、と肩を落とす翼。
しかし、未だ彼女の肩を掴む手は解かずに、身体ごと背けてしまうのを防いでいる。
無意味とわかっているからだろう、紅も顔を背けるだけでそれ以上暴れたりはしない。
「あー…馬鹿みたい。子供みたいに騒いで…どんな顔して午後の練習を過ごせばいいの…?」
「ま、あいつらは苦手なものがあるってわかってよかったみたいだけどね」
「こっちは知られたくなかったわよ!況してや、あんなに大騒ぎするくらいに嫌いだなんて…」
それを知っているのは、肉親や親友、それから目の前の彼だけで十分だ。
態々教えることでもないし、どちらかと言えば話すつもりなど全く無かったのだ。
どの道ばれる事ならば、いっそその時になるまで隠しておきたかった。
その時ならば、自分には余計な事を考える余裕など全くないのだから、こんな恥ずかしい思いをせずに済んだのだ。
尤も、後からそれに気づいて自己嫌悪に陥る事は恐らく間違いは無いが。
「今更悩んでも仕方ないでしょ。時間を遡れるわけでもあるまいし…」
「人事だと思って!」
「…人事だし」
「!!」
翼の答えに思わず声を荒らげようと口を開く。
しかし、これでは堂々巡りだと、それをゆっくりと噤んだ。
消化不良この上ないが、ただでさえ落ち込んでいる今に彼の倍返しは辛い。
「第一、大分慣れたんだろ?」
「航空券を渡されて空港まで連れて行かれたら覚悟を決めないわけにはいかないじゃない…」
「空港からも逃げようとしたガキの頃を思えば、大した成長だと思うよ」
あの時は大変だった…と、どこか遠い目を浮かべる彼に、紅の頬に朱が戻ってくる。
彼女自身も忘れて欲しい記憶なのだが、そういうものに限っていつまで経っても残るもの。
嫌で嫌で仕方が無かった幼い紅。
その気持ちがピークに達した時、彼女はロビーから逃げ出した。
安心させようと手を握ってくれていた翼と共に。
「あの時は本当にまいったね…。俺まで母さんには怒られるし」
「や、あの…忘れて、お願いだから」
子供の頃の事を思い出のように語られるのは、何故こうも恥ずかしいのだろうか。
耳まで赤くした紅は、思わず翼の口を手で閉ざす。
そんな彼女に、彼は目だけでにこりと笑った。
そして、自身の手を使ってそれを外させると、満足げに口を開く。
「こんな話に比べれば、あいつらに苦手な物がばれたくらいどうって事無いだろ?」
「………ソウデスネ」
ここで頷かなければ、延々と過去の話を語られそうだ。
羞恥に頬を染め、肩を落として頷く彼女に、翼はニッと笑みを深めた。