夢追いのガーネット
Episode 29

「玲姉さん」

リビングのテーブルにパソコンを置き、指先をキーボードの上で滑らせる。
振り向く事無く呼ばれた玲は、外国の雑誌を片手に紅の方を向いた。

「何?」
「風祭の練習量、メモしておきます?」
「それは選抜外の話?」

雑誌を手に持ったまま、紅の後ろに回る玲。
そうして肩越しにディスプレイを覗き込めば、文書ソフトの中に文字が打ち出されていた。
箇条書きに細かい説明をつけ、所々に彼女なりの考えや対処が書かれたそれ。
この辺りの知識は、年齢不相応に長けていた。
これも全て、子供の頃からの暁斗の指導の賜物だ。
十分に今の日本という社会を生きて行けるだろう。

「彼に聞いたの?」
「はい。一応、分かる範囲ですけど」
「なら、お願いするわ。彼と…小岩くんだったわね。最近伸びてきているから。他の子の参考にも出来る?」
「出来ると思いますよ。練習量やその内容から分析すればいいだけですから…応用は利くでしょうね」

玲の返事の後すぐにキーを叩く音が再開される。
そんな風に言葉を交わしながらも、次々と文字が打ち込まれていた。

「…彼、最近調子悪いですね」

そろそろ自分も戻ろう。
紅の指先をぼんやりと眺めていた玲がそう思った矢先、紅が小さくそう言った。
彼女の指す『彼』と言うのは、今データが開かれている天城のことだろう。
数字として現れるのは紅が整理してからだが、玲も薄々感じていた。

「何か、悩んでいるんでしょうね」
「やっぱり気付いてましたか」
「当然でしょう?」
「………悩み、かー…」

間延びした声を発しながら、紅は上体を後ろへと倒していく。
そこにあったソファーに凭れかかる様にして、天井を見上げた。
素足が触れるカーペットの感触を足で感じ取りながら、全身の力を抜いてしまう。
あまりにも慣れ親しんだ空間の所為で、このまま寝てしまいそうだと思った。

「紅もあるわよね、悩み」
「姉さんに隠せるとは思ってませんけど…。やっぱり、筒抜けなんですね」

そう言ってソファーに座る玲の方を見上げて苦笑を浮かべる。
彼女は先程から閉じたままだった雑誌を脇へと置くと、自分の太股の傍にある紅の頭を撫でた。

「人生の先輩が相談に乗ってあげてもよろしくてよ?」
「はは!じゃあ、お願いしようかな」

少し冗談めかしてそう笑い、紅は一時口を噤む。
そして、自身の中で単語を整理した。

「進路…どうしようかと思って」
「進学でしょう?流石に中卒は良くないわよ」
「や、姉さん。それはそうなんだけど…。このまま、普通の公立高校を目指していいのかな…って」
「…普通、それを悩むのは大学受験よ?」

私だって高校の進路ではそこまで悩まなかった、と玲は苦笑した。
確かに、人生を左右するような決断を迫られるのは主に大学受験の方だろう。
それは紅自身もよくわかっているのだが、それでもそう考えずには居られない理由があった。

「有希…桜上水の小島さんって居たでしょ?」
「あぁ、あの女子サッカー部の子ね」
「あの子、留学を考えてるんだって」

ポツリと零した言葉に、玲は何故?と言いたげな視線を紅へと向ける。
恐らくその理由は分かっているのだろう。
それを口に出させる事に意味がある。

「…サッカーと生きていくって」
「あら、いい事じゃない。そうして女性のサッカー人口も増えてくれれば嬉しいわ」

嬉々とそう答え、ぐっと拳を握った玲に思わず「そうじゃなくて」と呟く。
何だか、悩んでいる自分が馬鹿みたいに思えてきたのを無理やりに抑えこんだ。

「私も何か考えておいた方がいいのかなって思っただけ」
「将来を決めてしまうには、まだ早いと思うわよ?だって、あなたは中学生なんだから」
「そう…だけど。何か…周囲に夢を持ってる人ばっかりだと…正直、焦る」

マネージャーと言う立場上、無理はない。
選抜に残れるほどサッカーに対する熱意を持つ彼らに囲まれ、友人もそれに向けて進んでいる。
急かされているわけではないと分かっているのだが、心のどこかで焦りが大きくなっていた。

「翼にも焦る必要は無いって言われたんだけど…何かね」

自己暗示のように「焦るな」と呟いてみても、やはり無駄だった。
やれ部活だ、やれ生徒会の引継ぎだと忙しかった時はよかった。
毎日が忙しすぎて、こんな面倒な事を考えている余裕が無かったのだ。
それが全て終わり、目の前に『進学』と言う道が見えてきた今、妙に心が逸る。

「なら、いっそあなたも留学したら?」
「え?」
「ほら、おじさん達は海外暮らしでしょう?一緒に暮らせば何か見つかるかもしれないわよ」
「―――…考えたことも無かったな…。高校はこっちって決めてたし…」

何より、彼らが海外に移ると言った時に兄に頼み込んだのは、他でもない自分だ。
その時の事を思い出し、紅は思わず口元を押さえる。

「我ながら我がままだったなぁ…あの時は」
「紅?」
「何でもない」

まだまだ幼かった自分。
夜中に離れたくないと泣き付いた自分を、兄は優しく慰めてくれた。
その翌日には彼が両親を説得してくれて、自分は今こうして日本に居られるのだ。
思い出してみれば何とも恥ずかしくて、出来れば記憶から抹消してしまいたい過去。
だが、あの時の気持ちを思い出したお蔭で、紅の脳内でとある考えが生まれた。

「そっか…深く考えなくてもいいんだ…」

当たり前すぎて、忘れそうになっていた感情。
それを思い出した今、ここまで悩む必要などなかったのだと心中で呆れてみる。

「考えはまとまった?」

紅の表情の変化を悟ったのか、玲が微笑みを浮かべて問いかける。
彼女の言葉に紅はしっかりと頷いた。

「漸く、これが提出できそう。姉さん、ありがとうね!」
「私は何もしてないわよ。それに…紅が敬語を使わずに話してくれるのは久しぶりだったから嬉しいわ」

いつからか、年上だと言う事を意識するようになって自然と言葉を正すようになった。
そんな彼女だが、自分が甘えたい時だけそれを子供の頃のように親しみの篭った話し方になる。
前にこうして話してくれたのは、もう何ヶ月も前で…下手をすれば年単位だ。

「そうと決まれば…」

スクッと立ち上がると、紅は手に持っていたそれをテーブルに忘れたままリビングを出て行く。
パタパタと聞こえていたスリッパの音は、やがて階段を上っていって聞こえなくなった。
そんな彼女に置いていかれた玲はと言えば、楽しげに笑って忘れられたそれを手に取る。

「志望校最終調査…ね」

一番上に印刷されたその一文を読み取り、玲はクスリと微笑んだ。
締め切りが週明けの月曜に迫っているのに気付くと、少しばかり驚いたように目を見開く。
提出物は余裕を持って提出する紅が、ギリギリまでそれを持っているというのは珍しい。
よほど悩んでいたらしいな、と彼女は肩を竦めた。

「暁斗が二週間も出張するからいけないのよね、まったく」

相談しようにも、仕事で出張している彼に態々電話するのは気が引ける。
そう考えた紅が一人で悩んでいた姿を思い浮かべ、少し口を尖らせた。

「帰ってきたらちゃんと言ってきかせないと駄目ね」

血の繋がりはなくとも大事な妹を悩ませた罪は重い。
そう呟き、玲はカレンダーを見つめた。
そして、暁斗が帰って来るのは来週の半ばだったなと確認する。
















十数分後、パタパタと足音がしてリビングのドアが開いた。
そこには出て行った時よりも更にいい笑顔を浮かべる紅。
そして、彼女の後ろにはパーカーを羽織った翼が居た。

「玲姉さん。打ち合わせ、明日でもいい?」
「別に構わないわよ?データさえ用意してくれるなら」
「ごめんね、ありがとう!それから…出かけてくるね」

パンッと両手を合わせてそう言うと、紅はソファーにかけていた自分の上着を手にとって部屋を出て行く。
ドアのところで待っていた翼が、ドアを閉める際に玲を振り向いた。

「その辺散歩してくる」
「はいはい。気をつけて行ってらっしゃい」

手を振る玲に見送られ、パタンとドアが閉じた。
やがてリビングの窓から、並んで外を歩いていく二人の姿を見つけて目を細める。
微笑ましい二人の様子に自身も笑みを浮かべ、紅の置いていったノートパソコンを閉じた。

Back Menu Next
06.10.26