夢追いのガーネット
Episode 27
夏休みとは言え、紅は慌しい生活を送っていた。
初めの練習以来、四日に一度は選抜の練習がある。
長期休暇が過ぎれば学生であると言う点を考慮して、出来る時にやっておこうと言う考えなのだろう。
無理のない程度の練習ではあったが、決して易しいものでもない。
無論、マネージャーである紅も忙しなく動き回る日々が続いていた。
選抜の練習が無い日には、学校の部活がある。
普段参加できないし、更にキャプテンである翼は出来る限りそれに出るようにした。
彼に倣う様にして、紅も練習に参加する。
そんな生活を送り始めた紅は、最近になって漸くそのサイクルに慣れてきていた。
お蔭で小学生も驚くような時間に就寝と言う事もある。
無理をするなよ、と声を掛けられる度に、彼女は笑顔でこう答えていた。
「好きでやってる事だから、無理じゃないよ」
そんな彼女だが…やはり、疲れは蓄積されるものだ。
身体が限界を訴えたのは、お盆も過ぎ、夏休みも残すところあと一週間と言う頃だった。
夏休み最後の選抜練習は、飛葉中で行われる事になっていた。
メンバーもそれぞれ自分の到着時間というものを定め始めている。
時間に余裕を持って来る者、それなりの時間に来る者、後数秒と言うところで姿を見せる者。
その順番も、ある程度同じになってきている。
だが、今日だけはその順番が変わっていた。
「あれ?飛葉連中はまだ来てねぇの?」
珍しー、と声を上げたのは、集合時間5分前に姿を見せた藤代だった。
彼は集合時間よりも5分以上前に来た例がない。
その内遅刻するだろうと、密かに賭けの対象になっていることは、彼自身は知らないことだ。
「あー…そう言えば、いねぇな」
「黒川と畑なら来てる。さっき校舎の方に歩いていったぜ」
「雪耶と椎名は?」
彼の更なる質問に、集まっているメンバーは顔を見合わせた。
誰か見たか?
いや?
そんな会話を目で行うと、彼らは全員首を振るなど否定の行動を取る。
一同、首を傾げた。
「雪耶っていつも一番に来てたよな」
「アレだろ?多分、椎名も一緒だ」
「そういや、今日は監督も遅いよな」
珍しい、と誰かが言った。
すでに集合時間は過ぎていて、本来ならば練習が始まっていてもおかしくは無い頃だ。
「とりあえず、いつも通りトレーニングをして待とう」
その一言で場を纏める事の出来る渋沢には、リーダーシップを取る事に対しての天性の才能すら感じられた。
一人、また一人とグラウンドに薄く残る楕円の白線に沿って走り出す。
だが、全員が走り出したところで校舎の方から柾輝と六助がグラウンドに向かって駆けて来た。
「練習はコーチが来るまで基礎練。監督からの連絡だ」
「急用とか?」
手短に話す柾輝に、質問の声を上げたのは先程と同じく藤代だった。
尤も、彼が言わずとも誰かが似たような事を口にしていただろうが。
その質問に柾輝と六助は顔を見合わせた。
そして、真剣な表情でこう言ったのだ。
「雪耶が事故ったらしい」
「えっと………お騒がせしてごめんなさい…?」
疑問形になってしまったのは、その内なる動揺が顔を覗かせたからだろうか。
彼女は愛想笑いとも取れるようなそれを浮かべ、病室のドアと口とを開けっ放している彼らにそう言った。
「…事故った…んだよな?」
その割には元気そうだけど、と後に続きそうな言葉だ。
紅の様子は彼らの予想を遥かに超える軽いものだった。
と言うよりも、どこにも目立った怪我はないし、絆創膏の一枚さえも無い。
「あー…その事なんだけど」
いよいよ表情を苦笑へと変え、彼女はベッド脇に置いた椅子の上で不機嫌に眉間の皺を刻む翼を見た。
その向こうでは、玲も苦笑を浮かべている。
「私が事故ったわけじゃないのよね…」
つまるところ、そう言うわけだ。
柾輝の言っていた『事故』の後、運良く空いていた病室に運び込まれた紅。
尤も、その事故とやらから説明しなければならないだろう。
いつも通りに集合の一時間以上前に飛葉中に着くように、紅は家を出た。
隣の翼と合流し、2人で慣れた通学路を歩いていたところに見えたのは、一匹の黒猫。
前を横切られるのは縁起が悪いと言うが、そんな事を言ったら黒猫を飼っている人はどうなるのだ。
紅の考え方はそれだった。
こちらを向いてピタリと足を止める黒猫がどうしようもなく愛らしく見えた紅は、仄かに頬を染める。
「可愛いっ!」
「ただ見てるだけじゃん」
冷静なツッコミが入るも、紅は慣れた調子で聞き流す。
そして、未だ立ち止まったままの猫の近くでしゃがむと手を差し出す。
おいでおいでと声を掛けるが、流石は猫。
警戒心もあったのか、紅の顔と手を交互に見てどうすべきか悩んでいるようだった。
彼女に追いついた翼は呆れるように溜め息を吐き出す。
そんな時、彼は近づいてくる一台のバイクに気付いた。
フルフェイスで顔は見えないライダーは、進行方向に歩行者が居るにも拘らず速度を落とそうとしない。
それに軽く眉を寄せ、翼は未だ猫に語りかける紅を見下ろした。
「そんな所にしゃがんでると轢かれるよ」
「え?」
翼の声に、紅は猫に向けていた視線を持ち上げる。
そこに映ったのは結構な速度でこちらに向かってきているバイク一台。
止まる様子もスピードを緩める様子も無い。
流石に危険を感じたのか、翼が無理やりに紅の腕を引いた。
その際、紅は咄嗟に自由な方の手で前に居た猫を抱き上げる。
腕を引かれた勢いのままに翼にぶつかった紅が立ち上がって僅か3秒後。
先程まで彼女が猫と格闘していた位置をバイクが通り過ぎていった。
「危ないな…。…怪我は………紅?」
すでに米粒サイズのバイクを睨みつけ、彼は紅を見下ろす。
だが、そこでふと違和感を覚えた。
彼女にしてはありえないほどに、額を肩に預けるようにして不自然に寄りかかってきている。
「ごめ…ちょっと……動かないで…」
言い終わるのが早かったか、猫が我に帰るのが早かったか。
それは寸差だったように思われる。
動かないで、と言われた翼は動かなかった。
しかし、代わりに腕に抱かれたままだった猫が激しく暴れ、最終的に紅を蹴飛ばして腕を逃れる。
何やら様子のおかしかった彼女は、その突然の衝撃に耐えられなかった。
「…紅!」
焦ったような翼の声を最後に意識は暗転する。
「―――と言うわけです」
「………要するに、バイクとの接触は一切無くて、紅が倒れたのは疲労による貧血。
猫の為にしゃがんでて、咄嗟に立ち上がったから立ち眩みを起こして…結局猫に止め刺されてりゃ世話ないよね、まったく」
説明が終わると、一行が溜め息とともに肩を落とす。
命に関わるものではなかったのだから喜ばしい事なのだが…無駄に心配させられた気分だ。
目の前で倒れられただけに、それを誰よりも感じている翼は不機嫌そうに医者から聞いた紅の現状を伝えた。
「結局、椎名が救急車を呼んで雪耶を病院に連れて行ったんだろ?何でそれで『事故』になるんだよ」
「あぁ、それは私の所為なの」
ごめんなさいね、と悪びれた様子も無く声を発したのは今まで沈黙していた玲。
彼女の話を再現すると、こうなる。
「あら、どうしたの、翼。何か忘れ物?」
『あのさ、今病院なんだ。練習に遅れるから、一応連絡したんだけど…』
「病院?」
『うん、紅が』
「紅に何かあったの!?」
『まぁ、あったと言えばあった。バイクを』
「事故!?すぐに行くから、紅の傍についてるのよ、翼!」
『玲!?人の話を最後まで…―――』
翼の話など最後まで聞かず、彼の耳に届くのは無常なツー、ツーと言う電子音。
10分後、慌しく病院に駆けつけた玲が『選抜には連絡したから大丈夫』と言った時には軽い眩暈を覚えたものだ。
「元はといえば紅が自分の体調も考えずに無茶したのが原因だよね?」
そう言ってコメカミを引きつらせながら紅の頬を引っ張る翼。
「痛いよ、翼!」と非難の声を上げるが、それは空気の抜けた言葉ならぬ声として発せられた。
紅はこの一ヶ月でそれなりに仲間として認められていたようだ。
少なくとも、『事故った』の一言でメンバー全員が病院に集まるほどには。