夢追いのガーネット
Episode 26

鳴海の脳内では、現状を把握しようと脳がフル稼働していた。
何だか少し鼻先がヒリヒリするし、目の前では先程自分が絡んだコーチが横を向いて苦笑を浮かべている。
厳密に言えば、コーチから監督に就任したと聞いたのだから、彼女は監督だ。
しかし、それを認めていない鳴海はあくまで彼女を『コーチ』として脳内で処理する。
それにしても…先程目の前を掠めていったのは一体なんだったのか。
覚えは嫌と言うほどある。
毎日と言っても過言ではないほどに目にしていて、尚且つ自分が追いかけているものだ。
それが何故、目を見張るような速度で自分の鼻先を掠めて左から右へと飛んでいったのか。
アレは勝手に飛び跳ねてくるものだったか?などと言う不可思議な考えまで浮かんできてしまった。

何故、自分の鼻先がヒリヒリするのか。
何故、目の前の女性は苦笑を浮かべているのか。
何故…周囲は驚くほどに静まり返っているのか。

そんな事を考えていた時間は精々10秒。
その短時間でこれだけの事を考えられれば十分だろう。
理解が追いつく前に、彼はゆっくりと自分の左側…つまり、アレが飛んできた方を向いた。
彼の視界に、見慣れたわけではないけれども見た事はある少女が映る。
自分を睨みつけるようにして、合宿時に女子と間違えた少年に止められている少女は―――。
















ぐぐぐ…と腕に力を込め、がっちりとホールドしている翼の腕を解こうと躍起になる紅。

「放してよ、翼!」
「放したらあいつに絡むだろ。いいから落ち着けって」
「だって、アイツ玲姉さんを馬鹿にした!」

自由になっている右手でビシッと鳴海を指差し、紅は怒る。
翼はそんな彼女に溜め息を吐き出した。
傍らでは柾輝と六助が苦笑を浮かべている。
紅の変わり様に驚きを隠せないメンバーとは違い、流石に部活仲間だけあって慣れているようだ。

「とりあえず、落ち着きなよ」
「翼が放してくれたら落ち着く」
「はい、却下。放した瞬間に殴りかかりそうな顔してよく言えるね」

誰が放すか、とばかりに彼は手首を掴む力を僅かに強める。
ぶんぶんと振られる所為で血が上に行ったり下に行ったりしているように感じるが、まぁ問題はないだろう。
どうやっても外れないと悟ると、紅は漸く視線を翼に向けた。
恨みがましい眼差しに苦笑を深める。


その頃、漸く彼女を止める気になったのか、玲が紅の肩にポンと手を乗せた。

「紅、いいから。好きにさせればいいのよ」
「でも、コイツ玲さんの事何も知らないくせに…!」
「知らないなら、知ればいいの」

にっこりと笑う玲。
同性であっても惚れ惚れとするその笑顔に、紅は毒気を抜かれた。

「鳴海くん。ボールが掠めた所は大丈夫?」
「え?あ、あぁ…」
「なら、早速だけど…私に実力があるかどうか、試してみなさい」






そうして話が進んで行く中、紅は不機嫌に拗ねた表情を見せている。
結局、自分の中で燻った怒りは矛先を失って彷徨っただけ。
後味が悪い事この上ない、と彼女は溜め息を吐いた。

「監督の事となると見境なくなるよな、雪耶」
「わ!ちょっと柾輝、縮んだらどうしてくれるの!」

頭の上に腕を乗せ、声だけでなく体重まで掛けてきたのは先程事の成り行きを苦笑と共に見守っていた柾輝。
いつの間にか翼は風祭のところに行っていて、彼を止めてくれそうな人物は見当たらない。
何とか彼の腕を退けようとする紅に、彼は笑った。

「縮んだら翼が喜ぶだろ」
「私はそんな事で喜ばれても嬉しくない。って言うか、本当に重いってば」
「へいへい」

漸く頭の上の重圧が消える。
紅は潰されないように頑張った所為か痛む首を軽く押さえつつ柾輝を睨む。
だが、玲が走り出せば紅の視線は自然と彼女の方へと固定された。
そうなってしまえば、周囲など目に入らない。
僅か数分間のプレーだが、紅の目を惹き付けるには十分だったようだ。
今までの感情の起伏など全て放り投げてしまい、彼女に残るのは尊敬のそれ。
隣で柾輝が声を殺して笑っていることなど、気付いていないだろう。

何を隠そう、紅は玲の大ファンだ。
彼女と言う人柄を慕っているだけではなく、その魅力あるプレーも。
普段はそこまで玲を慕っているとは感じさせない紅だが、彼女のプレーが関わるとなれば話は別。
馬鹿にされれば自分の事のように怒るし、一度ボールを蹴り出せば全てを投げ出しそうな勢いで食いつく。
これには、十数年の付き合いで慣れているはずの翼も苦笑を禁じ得ない。

「尻尾が見える」

翼がそう言ったのは、もう何年も前の話だ。
















「玲姉さんお疲れ様!」

紅はタオルを持って彼女の元へと駆け寄った。
恐らく、普段自分が『西園寺監督』と呼んでいた事など頭から抜け落ちている。

「ありがとう、紅。久々だったけど…どうだったかしら?」
「格好良かった!」

ピョンと飛び跳ねそうなほどに興奮する紅の頭を撫でる玲。
彼女自身も、紅が可愛くて仕方がないのだろう。
時折こうして彼女を喜ばせては、分かりきっている感想を尋ねるのだ。
その時の歳相応…寧ろ幼く見える紅の反応が好きなのだと、彼女は語る。

「さ、興奮するのはそれくらいにして」

ポンと玲が紅の肩を叩く。
そして、彼女を覗き込むようにして目線を合わせた。

「紅の仕事は?」
「マネージャーと姉さんの補佐」
「そう。なら、仕事に戻りましょうか」

玲の言葉に紅は頷いた。
そして、一度深呼吸をした後、手に残ったタオルを握る。
先程玲に駆け寄る前に掴んだタオルは二つ。
一つはすでに彼女の手にあり、紅の手に残っているのはもう一方のみだ。

「…お疲れ様」

どんなに短いプレーであろうと、動いた事に変わりは無い。
声を掛けるときにはこの言葉をと決めている紅は、未だ悔しがっている鳴海の前に立った。
彼はまさか自分に渡してくれるとは思って居なかったのか、髪を掻き混ぜた手をそのままに彼女を見下ろす。
いつまで経っても受け取られないタオルに苛立った紅が先に動いた。

「いらないなら戻るわ」
「い、いる!」

例外はあれど、引かれれば追いたくなるのが人と言うものだ。
思わずひらりと揺れたタオルを掴み、鳴海は声を上げた。
そんな彼の胸倉を掴み、紅は見惚れるような笑顔を見せる。

「最中に玲さんに肘鉄食らわせようとしたみたいだけど…今度やったら承知しないわよ」

後半部分はかなりの低音。
笑っているが、笑っていない笑顔で彼女はそう言い切った。
言い終わるが早いか、紅は早々に手を放す。
そして、口元を引きつらせたまま立ち尽くす彼をおいて玲の後を追った。

「女って怖ぇー…」

容姿に惑わされると痛い目を見る。
そう思わずには居られない鳴海だった。








「なぁなぁ、椎名!」
「何?」
「雪耶ってあの監督の何?」
「…何って言われても、血縁関係はないよ。紅は本当の姉みたいに慕ってるけどね」

声を潜めた若菜の問いかけに、翼は普通の音量で肩を竦めて答える。
そして、メンバー全員に聞こえるよう口を開いた。

「見た通り、紅は監督の事大好きだからね。それこそ、性格が変わるくらいに。
ま、怪我したくなければ下手に突っかからない方がいいよ。………紅、強いし」

翼の言葉は、メンバーの胸にしっかりと刻み込まれた。

マネージャーの鏡に見えた紅の、意外な一面を見た瞬間であった。

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06.09.09