夢追いのガーネット
Episode 20
会議は二時間ほどで終わった。
それぞれがミーティングルームを後にする中、紅は立ち上がらない暁斗に倣ってその場に留まる。
残ったのは雪耶兄妹と、そして玲だけとなった。
「兄さん、いつの間に最高責任者になんて…」
「都選抜チーム構成の決定と同時に。驚かせようと思って黙ってたんだ」
ニッと笑みを浮かべた彼は、やや不満げな様子の紅の頭を撫でる。
彼女自身も感じるほどに妹に甘い彼だが、何だかいつもとは違う雰囲気に感じてならない。
紅の思いを感じ取ったのか、彼は曖昧な笑みを浮かべた。
「玲に話は聞いた。お前に無理させるくらいならあの子達の参加を許可させなきゃ良かったな」
「…兄さんの所為じゃないよ。それに、いい社会勉強になったし」
世の中ちゃんと物事を正しく見ようとしてる人間ばっかりじゃないって事、理解できたよ。
そう言って紅は苦笑を浮かべた。
マイナスをプラス方向に考えるその姿勢が、自身をステップアップさせる事に繋がるのだろう。
「それより、兄さん…」
紅はふと表情を暗くして自身の手元に視線を落とした。
彼女の手元には今、選手名簿が握られている。
彼らの名前の隣には丸や三角、そしてバツ印。
「私には、彼らの将来を背負うなんて覚悟は出来ない…」
紅は選抜に選ばれると言う名誉を、決して低くは見ていなかった。
その枠内には入れたと言う事は、未来の日本代表も目指せる位置に立つということだ。
自分の意見も採用される…即ち、彼らの将来に関わると言う事を意味する。
それがどうしようもなく不安だった。
「…大丈夫だ」
頭の上に降って来たそれらに、今しも震えだしそうだった身体が落ち着いていく。
目線をあげれば優しく微笑む兄の姿が飛び込んできた。
「お前に最終的な判断をさせるわけじゃない。ただ、俺はお前の眼は信じてるよ」
「暁斗兄さん…」
「選ぶのは私達。あなたは、あなたなりの意見を聞かせてくれればいいのよ。安心なさい、紅」
「…玲姉さん」
すいと腕を拾い上げられ、自分よりも一回りほど大きな玲の手に自身のそれを包み込まれる。
肌から伝わる温もりや彼らの声、全てが「大丈夫だ」と訴えていた。
「………うん」
二人の優しくてあたたかい言葉は、すとんと心の蟠りを落としてくれた。
ミーティングルームを出て、食事を終えた紅。
最終日を明日に控えた今、彼女自身も明日の準備はすでに万端。
最早例のマネージャー達を頼りにする事はなく、全て自分で整えた。
明日に思考を馳せつつ、人気のない階段を一段ずつ上っていく。
グラウンドから建物に入る時に使用するこの階段は、すでにしんと静まっていた。
「明日…か」
ポツリと呟いた声も、すぐに静寂に飲み込まれる。
そんな中、紅の聴覚は足音二つを聞き取っていた。
自身が今向かっている階段の頂上からのそれは、段差を降りるそこで立ち止まる。
紅は視線を持ち上げ、その人物を視界に納めた。
睨みつけるような二つの双眸が捉えるのは自身だと気付きながら、紅はその脇をすり抜けようとする。
無論、そう上手く行くはずもなく進路はその人物らの身体によって絶たれた。
「ねぇ。あなた、何なの?」
「…自己紹介なら一番初めにしたと記憶してるけど」
「何で邪魔ばっかりするの?」
交互の質問に、紅は軽く眉を寄せる。
さも自分が邪魔をしているかのように言葉を発する彼女たち…尾花沢と佐倉。
彼女らの言い分は、紅には到底理解出来るものではない。
「…邪魔した覚えはない」
された覚えならあるけれど、と心の中で付け足しておく。
人気が無くとも点される室内灯のおかげで、彼女らの表情ははっきりと見て取れる。
明らかに不愉快に歪められる表情に紅は内心溜め息を吐き出した。
「マネージャーになるなんて、下心があるに決まってるわ」
「大体、興味ないなんて言っておきながら椎名くんと話してるじゃない!」
「私が誰と何を話そうが勝手でしょう。何でそれをとやかく言われなきゃならないの?」
「当たり前のようにあなたが隣に居たら、椎名くんが私を見てくれないじゃない!」
ツインテールを揺らし、佐倉は声を荒らげる。
その様子に紅は彼のファンクラブの女子生徒を思い出した。
そう言えば、前にもこんな目で「翼から離れて」と声を荒らげてきた子がいたな、と。
同時に感じたのは、彼女は彼女なりに彼に本気なのだと言うこと。
有耶無耶のままに彼女を制するのは無理だと頭が判断した。
「悪いけど、彼の隣を他の誰かに譲るつもりはない」
紅の言葉に二人…特に、佐倉の方が大きく目を見開いた。
この状況でこの言葉を言う事の意味を理解できないほど馬鹿ではないようだ。
「……何よ。知ってて、心の中で笑ってたの…?」
「…違う」
「何も違わないじゃない!私が彼を狙うって言った時にも、嘲笑ってたんでしょ!?」
もう、何を言っても無駄だと悟る。
確かに自分が何も伝えなかったのは事実で、彼女が本気であると気付いてしまったのも事実。
何を言っても言い訳にしかならないように思えて、紅は静かに口を噤んだ。
「椎名くんのあの言葉………あなたに向けられてただなんて………信じられない…っ」
知らない人だと思ったのに。
その声は小さくて、紅の耳に届く事はなかった。
隣に立つ尾花沢が彼女を宥めるように肩に手を乗せるが、彼女は依然として紅を見つめたまま。
そして、彼女は自身の腕を振り上げた。
何故か避けてはいけない気がして、紅は自身へと向かってくるそれを見つめる。
コマ送りのようにゆっくりと近づいてきたそれはどんどん大きくなって、やがて頬に走る痛み。
視界が揺れたのは、その衝撃の所為だけではなかった。
「紅っ!!」
階段で口論なんかするんじゃなかった。
どこか人事のようにそんな事を思い、紅の耳は自身を呼ぶ声を聞きとめる。
「階段落ちたのなんか、数年ぶり…」
「そんなこと言ってる場合じゃないだろ!どこも打ってないの!?」
翼は紅を受け止めたままの姿勢で問いかける。
踊り場の上に居る彼女らは、まさか紅が落ちるとは思っていなかったのだろう。
青褪めた様子で、どうすればいいのかわからずにその場に立ち尽くした。
彼が受け止めていなかったらと思うと恐ろしい。
「………うん。頭は打ってないし…大丈夫。ただ……」
「ただ?」
「足、軽く捻った」
落ちそうになった直後、紅は無駄な足掻きとは理解しつつも態勢を立て直すべく足を踏ん張った。
その時の向きが悪かったのだろう。
角度を変えるとズキンと鈍い痛みが伝わってくる。
動けないほどではないと言う事は不幸中の幸いだ。
足首を押さえる紅を横目に、翼は安堵の息を漏らす。
そして、睨みつけるような鋭い眼光で踊り場の二人を見上げた。
「佐倉…だっけ?俺、言ったはずだよね。俺達は遊びに来てるんじゃない。邪魔するなら帰れって」
「で、でも…椎名くん…!」
「あんた達よりも遥かに動いてる紅に怪我させて、邪魔してないなんて言わせないよ」
「…翼」
どこか強い口調で紅が彼を呼ぶ。
その声に応えるように翼は不満げにも視線を彼女へと落とした。
彼の視線を受け、紅は「大丈夫だから」首を横に振る。
「明日に支障はないわ。もう行こう?」
ひょいと立ち上がり、彼に向けて手を差し出す。
それが佐倉の反感を買う行為だとしても、翼を宥める方法はそれ以外に思い浮かばなかった。
もう一度彼女らを睨んだ後、彼は渋々その手を取る。
「残りは明日一日だけど…次は許さないから」
言い訳も弁解も言わせないような強い声。
固まる彼女らの脇を通り、彼はいつもよりも数倍遅い足取りで紅と共に立ち去った。
呼び止める声は、ない。
その頃、階段の下のフロアの柱に暁斗は背中を預けていた。
彼の携帯が振るえ、着信を伝える。
「………お見通し、か」
メール画面を見下ろし、彼はクスリと苦笑いを浮かべる。
差出人は彼の可愛い妹から。
『注意するのは構わないけど、明日で最後なんだし放り出すのはやめてね』
その画面を消さないままに携帯を閉じ、彼は階段の上でどうしようもなく固まっている二人を見上げた。
とりあえず、彼女の兄として…ではなく、大人として一声注意くらいはしておこう。
そんな思いと共に、彼は階段を一段踏み込んだ。