夢追いのガーネット
Episode 18
「眉間に皺。美人が台無しよ」
トンと眉間を押さえる指の感触を受け、紅はハッと我に返る。
苦笑する玲を見上げ、彼女も同じような笑みを浮かべた。
「そんなにAの方が心配?」
「ええ。心配ですね…やっぱり、私が一人でした方がよかったかも」
「そんな事したら何の為にあの子達がいるのかわからないでしょう。紅の負担を少しでも減らす為なのに…」
寧ろ精神的ストレスが増加してるわね、と玲は心中で溜め息を漏らした。
尾花沢監督の姪と言う事で、不安がなかったと言えば嘘になる。
だが、武蔵森のサッカー部でマネージャーを務めているのだから大丈夫だと思ったのだ。
よくまぁ、あの厳しそうな監督が彼女達を野放しにしている、と玲はそこに疑問を抱く。
自分では想像出来ないような、何か事情があるのだろう―――恐らく。
結局全然心休まらない様子の紅に、彼女は人知れず溜め息を零した。
損と言うか、真面目と言うか…彼女の性格なのだから仕方の無い事だけれど。
「西園寺コーチ」
「どうしたの?」
「何か、あそこ騒がしいですね」
現在はA、B共に練習が始まっていて、賑わう必要など無いはずだ。
監督の声が届くならまだしも、見た限りそんな風でもなさそうである。
目に入るのは、昨晩の一件の罰として走らされていたはずの風祭と藤代。
そして、この距離では断言は出来ないが、恐らく見覚えの無い長髪の男だった。
「何があったのかしらね」
「スコアの方は付けときますから、行ってくれていいですよ。監督は全然暇がなさそうですので」
チラリと横目で尾花沢を確認するが、彼は騒ぎには気付いていないようだ。
恐らく例の二人が上手く動けず、結果として彼の仕事が増え、見かねたスタッフが手を貸しているのだろう。
振り向く余裕すらなさそうな彼に、紅はそっと苦笑を浮かべた。
今のところAの方にまで皺寄せが及んではいないようなので、今日一日はこのまま頑張ってもらう事にしよう。
頼んだわ、と去っていく玲に頷き、紅はBの練習風景に目を向けた。
腕時計を確認しつつ、そろそろ休憩の時間である事を知り、B全員に届くように「5分休憩」と声を張り上げる。
各自が水分補給のために己のドリンクボトルを籠の中から取っていく。
流石に一人一人手渡していられるほど紅に余裕はない。
これで最後だなと、自分の脇に置いた籠からボトルを持っていく一人を見送った。
さて、では走っている筈の風祭のところには自分が運ぼうとベンチから腰を持ち上げたわけだが…
「何で5つも残ってるの?」
籠の中に残されたボトルの数に、紅が小さく呟く。
一つは今から持って行こうとした風祭の分。
そして一つはコーチである玲の分で、予備は二つ用意してあったはずだ。
自分の分は別に置いてあるので…計算が合わない。
ふと、残っているボトルをしっかりと視界に納め、謎は解けた。
見覚えのありすぎるそれの持ち主を、彼女が知らないはずが無い。
「まったく…。何やってるんだかね」
キョロキョロと周囲を見回し、目当ての人物を見つけると肩を竦める。
彼の分と風祭、そして玲の分のボトルを抱え、紅はそちらへと足を運び出した。
翼にとって、玲は『大切』と言う枠内に存在する女性だ。
はとこ、と言うだけでなく玲は自分の彼女の兄の恋人…もっと簡単に言ってしまえば暁斗の恋人に当たる。
彼自身家族だと思っているし、彼女自身も同じだろう。
自分が口を出すまでも無い事だが、玲に変な虫が付かないようにしたいのは自分とて同じ。
だから、玲にだらしない笑みを浮かべた男が迫った時には、何も考えずにその間に割り込んだ。
それだけでも不愉快だと言うのに、この男は自分の事を女だと思い込み、更には頬まで染めてくれたのだ。
これに怒らずして何に怒る。
翼の容赦ない拳が、男こと鳴海の腹にめり込んだ。
自分は男だと訂正し、彼に背中を向けようとした、まさにその時。
「選手たる者水分補給を怠るな!」
そんな声と共に、後頭部をパシンと何かが叩いていく。
一瞬何をされたのかわからず、とりあえず自分の後ろにいたのは玲だと理解しているにも関わらずこう声を上げた。
「紅!人を叩くなって何度言えば…っ!!」
本能と言うのは素晴らしい。
あの一瞬で、自分のそれは確かに声を識別してそう返事を上げていた。
だが、頭を押さえて振り向いた先に彼女の姿はすでに無く、少し離れた所で玲にボトルを手渡している。
紅は玲に手渡した後、風祭にも同様にボトルを渡していた。
藤代が何やら不平を垂れていたが、彼はAなので紅にはどうしようもない。
がっくりと肩を落とす様に、彼女は申し訳なさそうに眉を下げた。
紅の性格から考えて、今朝辺りに堪忍袋の緒が切れてあの監督に直談判に行ったのだろう。
その結果、自分の目で見て判断しろ、と言う事になった―――大方、そんな感じだろう。
そんなことを考えていた翼は、不覚にも出遅れた。
「何?君マネージャー!?」
「そうだけど………あぁ、遅れてくるって話の鳴海くん」
でかい図体ながら中々足が速い。
気づいた時には自分のすぐ傍にいた彼を見上げ、紅はその顔に頷く。
資料についていた写真で見た顔だ。
「え?何?俺のこと知ってんの?」
「…まぁ、マネージャーですし…」
「全員覚えてるの!?凄いねー!」
どこか馴れ馴れしい言葉遣いに、紅は内心眉を寄せる。
苦手なタイプの人間だと気付かずにはいられない。
「ねぇ、名前は?」
「雪耶」
きっぱりと苗字だけを答え、紅はその場を立ち去ろうとする。
こう言う輩は、名前まで教えるといきなりそちらで呼ばれかねない。
その事態だけは避けたい彼女の苦肉の策だったと言える。
案の定彼は名前を尋ねるが、そこは巧みに誤魔化しておいた。
そんな中、紅は彼の言葉を殆ど右から左に聞き流しつつ、彼の後ろにとある人物を捉える。
「所で、雪耶ちゃんは彼氏いる?もし何なら――…」
「あー…出来れば離れた方が…いや、今すぐこの場から逃げた方が…」
「え?……ぐはっ!!」
文字通り、吹き飛んだ。
あの小さな身体のどこにそんな脚力があるのかと問い詰めたいのは山々だが、火事場の馬鹿力とでも言っておこう。
兎に角、傍らの風祭や藤代さえ口を挟めないほど、まるで機関銃のように喋り続けた鳴海は突然視界から消えた。
代わりに、そこには鳴海を蹴り飛ばした翼が、不機嫌極まりない表情でキック後の態勢を整えていた。
事を穏便に済ませたかった紅の助言は、全く無意味だったようである。
「…紅」
「…何?」
ここまで不機嫌な様子の彼も珍しい。
恐らく自分が来る前にも何かあったのだろうと予測しつつ、返事を発する。
「戻るよ」
「あー…うん。了解です」
ぐいと腕を引かれてしまえば、反論の余地は無い。
逆らえば後が怖いと言う事もあり、紅は素直に頷いた。
そして去り際に風祭を振り向き、彼に向かって口を開く。
「悪いんだけど、彼に本当のこと話しておいてくれる?」
「本当のことって………あ!うん、わかった!」
こくこくと頷く風祭に申し訳なさそうに笑みを作り、手を引かれるままにこの場を後にする。
二人の背中を見つめていた藤代が、隣の彼に問いかけた。
「本当のことって?」
「多分、あの二人が付き合ってるってことだよ」
「え!?雪耶ってそう言うのに興味がないんじゃなかったの!?」
色恋対象に見るな、彼氏は募集していない。
自己紹介の時のそんな言葉を、藤代は興味がないものと受け取っていた。
恐らくあの場にいた大部分が彼と同じ意見だろう。
「…たぶん、密かに狙ってる奴いると思うけどなぁ…」
「あはは。駄目だよ。翼さん、怒ると怖いから」
「あ、それはわかる」
風祭の言葉に力強く頷く藤代の視線は、少し離れた所で未だダウンしている鳴海へと向けられている。
もし自分がああなったら、と思うと恐ろしい。
「鳴海の奴悔しがるだろうな…」
「………こればっかりはどうしようもないね…」
目を覚ませば、頼まれた事を引き受けた以上事実を伝えなければならない。
出来ればもう少しダウンしていてくれと思う彼の願いも空しく、鳴海は数秒後めでたくご帰還された。