夢追いのガーネット
Episode 15
午後の練習を終え、参加者が競ってシャワールームへと駆け込む中、紅は漸く一息ついていた。
と言っても仕事は探せば見つかるし、それを見なかった事にできる彼女ではない。
まだ人がくる気配の無い食堂で、昼食時と同じく練習の後に集めたボトルを横に置き、ぼんやりと照明を見上げる。
着々と進んで行く夕食の準備を手伝おうと思ったのだが、仕事を取らないでくれと調理師に止められてしまった。
ちなみにボトルの方は今消毒中で手を出す事は出来ない。
かと言ってこの場を離れるには時間が短いように思え、手持ち無沙汰と言う状況を噛み締めている紅。
「この後どうしようかな…」
夕食は玲からの誘いが入っているので、彼女に合わせた時間になるだろう。
大体8時くらいか…と頭で考えつつ、それまでの時間の使い道を整理する。
「これ終わらせたら、プリントアウトしてもらった資料をチェックして、姉さんのところに届けて…」
備品のチェックもあったか、などと指折り数えれば、仕事は結構残っているようだ。
紅は一旦整理を終えて壁にかけられた時計を見上げる。
針は丁度、ボトルの消毒が終わる時刻を指していた。
カタンと椅子を引き、立ち上がるとボトルを満たしていた消毒を排水溝へと流し、そして中を洗浄する。
そんな作業を繰り返し、45個と予備の分を終わらせた紅は用意してあったタオルで手の水気を拭き取る。
「…備品の数チェックくらいはあの子達でも出来るかな…」
言ったところで素直に実行するかどうかは別としても。
そうと決まれば、と紅はボトルを厨房の邪魔にならない場所に置かせてもらい、食堂を後にする。
いくら纏めて量が減っているとは言え、45人分の資料。
それなりの重量感を紅の腕に伝えていた。
帰宅部の女子生徒とは違い、いくらか鍛えてある彼女だから運べる代物だろう。
手ぶらの時よりは少しばかり遅い足取りで、それでも紅はスタスタと廊下を進む。
この荷物が邪魔にならないようにと人気の少ないであろう廊下を選んでいるため、今まで一人も出逢っていない。
順調に進めていた歩みは、その背中に声が掛かるまで続いた。
「あ、紅」
苗字を呼ばれる事はあっても、名前でしかも敬称無しに呼ばれることは少ない。
振り返る時点で表情を緩くして、彼女はその人物を見た。
「翼」
「やっと見つけた。何でこんな人の少ない廊下を歩いてるんだよ」
呆れたように溜め息を吐き出しつつ、翼は足早に紅に歩み寄る。
そして彼女の腕の中にある資料の量に軽く眉を寄せ、有無を言わせる時間を置かずにその半分を奪い取った。
「あ」と言う表情を浮かべる紅だが、言っても聞かない事は重々承知。
そのまま歩き出してしまう彼に苦笑を浮かべ、ありがとうとお礼をその背中に向けた。
「探してくれてたの?」
「そうだよ。夕食まで時間があったしね」
「そっか。ごめんね、疲れてるのに」
「あれくらいで動くのも億劫なほどに疲れたりしないよ」
躊躇い無くそう言いきる翼に、確かに…と笑みを零す。
この幼馴染は口から生まれたかのように口達者だが、それが口先だけではない事を知っている。
「で、何の話?」
「何って………まさか、忘れてたわけ?」
訝しげな視線が向けられる。
彼の言葉と視線に、何か約束でもあっただろうかと記憶を探った。
そして、唐突に思い出す。
「合宿参加の理由…?」
「半分正解。参加の理由も気になるけど、何で俺に隠してたかって事。ま、考えてみれば玲以外に有り得ないよね」
そう言って翼は肩を竦める。
自身のはとこの楽しげな笑みを思い出し、紅が彼女に言いくるめられたのだと言う事は容易に想像できた。
紅は玲を尊敬している部分があり、どうしても強く出る事は出来ない。
無論、玲もそれをちゃんと理解していて、いざと言う時には大いに利用してきている。
「玲に押し切られたんだろ?」
「…よくお分かりで」
紅の答えは翼の予想を肯定するものだった。
自分に隠していたと言う部分はやはり嬉しくはないが、玲の行動には感謝すべきだろう。
紅が居なくて、尚且つあの女子二人組みがマネージャーを務めていたとすれば…想像するだけでも不愉快だ。
この合宿に来てから先に出逢ったのはあの二人で、その時には監督を本気で疑ったものである。
流石、玲。
彼女の隣に座る紅を見た途端にそう思ったのは、自分だけの秘密だ。
「お人好し」
「それ暁斗兄にも言われた」
「誰でも思うよ」
お礼が出るわけでも、自分達のように将来が掛かっているわけでもない。
そんな場所で、いつもよりも数十倍忙しいマネージャーを務めようというのだから、思わず溜め息も出ると言うものだ。
「…ま、いいよ。別にお人好しでも何でも。皆、頑張ってるみたいだし」
それが見られれば満足だ、とそう言って笑う彼女の横顔は綺麗だ。
容姿的な面ももちろんあるが、それよりも内面の綺麗さがにじみ出ているようなそれ。
横目でそれを見つつ、翼はふと口元を緩める。
練習中にも視線を集めていた紅の隣は自分の場所なのだと言う優越感が心の中を渦巻いた。
「…ねぇ、黙ってた詫びに一つ答えてよ」
「私の所為じゃないんだけど…いいよ」
何?と首を傾げて足を止める紅。
それに倣って翼もその場で立ち止まると彼女に向き直る。
そしてにっこりと笑みを浮かべ、口を開いた。
「俺が参加して無くてもマネージャー引き受けた?」
「まさか」
迷う素振りすらない、一言。
ここまではっきりと断言されるといっそ清々しささえ感じてしまう。
「いくら私でもそこまでお人好しじゃないよ」
これだけただ働きをするのだから、それなりにメリットもないと。
紅はそう答えて再び歩き出す。
「…ふぅん…俺が居たらメリットがあるんだ?」
「………………………まぁね」
明らかに失言だった、と眉を寄せつつ頬に朱を走らせる紅。
対して隣の翼は上機嫌な様子で足取りも軽やかだ。
「ま、俺も良かったよ。紅が来てくれて」
「そう?」
「うん。紅は手馴れてるから、俺達も安心してサポートしてもらえるだろ」
初めからサポートがないとわかっていればそれなりの対応は出来る。
しかし、一度マネージャーの存在を知ってしまえば、様々な面で「この程度で」と甘えが出てしまうのだ。
それを補えないマネージャーでは意味が無い。
「残りもよろしくな」
「もちろん」
そう言ってふわりと浮かんだ彼女の笑顔が、やはり好きだと実感させる。
仲間内でも絶対に腹を抱えるような表情を作っているだろうとわかっていても、それを止めるすべは無かった。
「そう言えば…これ、どこに運んでんの?」
「私の部屋。って言っても、姉さんと一緒なんだけどね」
「ふぅん…玲とね」
何だかんだ言っても、ちゃんと紅を守るようにはしているようだ。
普段の玲の行動から考えて彼女を悪くすると言う事はまず有り得ないのだが。
あの二人と同室などと言われれば、流石の翼でも玲のところに直談判に走っただろう。
「あ、中は見ちゃ駄目だよ。これでも選抜関連の資料なんだから」
「見ないよ。そこまで狡賢くない」
資料に落とされた視線が気になったのか、紅は翼に向けてそう言った。
無論彼女も彼がそんな事をするとは微塵も思っていない。
「紅、もうすぐ夕食だろ?一緒においでよ」
「あー………どうしようかな…。玲姉さんに誘われてるの」
少し困ったように紅は肩を竦める。
行きたいのは山々だが、先約をほったらかしていく事は出来ない。
口を閉ざして悩む紅に、翼は思わず苦笑を浮かべた。
選べないどちらかを提示した時、彼女はいつもこうして時間の限り悩みぬく。
もっと楽観的に、直感でどちらかを選んでしまえばいいものを…とは思うが、こうして悩む姿は微笑ましい。
だが、流石に眉間の皺は頂けないので翼が助け舟を出してやる。
「玲がいいって言ったらメールしてよ。7時から夕食OKだったよな。じゃあ…大体7時半くらいに行くから」
「あ、うん。わかった」
「出来るだけ早くな。あ、ここどっち?」
突き当たりに差し掛かった翼は紅を振り向き進路を問う。
彼女は「右だよ」と答えながら翼を追い越して右の通路へと歩いていった。
他愛ない話は尽きる事無く、人気の無い廊下を賑わす唯一の音となって響く。